baroque‐concert in さや堂ホール
まえがき
baroque音楽との関わりを回想録風に
München時代
大学講師時代
音楽教室開設以降
Vitaliのchaconneについて
10月19日 9:20 ·
超、ショック!!
baroque‐concertのチラシに、 「baroque-concertの曲毎のmember紹介と、詳しいprogramはhomepageを見るように」、と書いてあって、「聞いてないよ!!」てな事で、Facebookに、私のbaroque音楽との関わりと、baroque-concertの今までの歴史を書いていたのだが、大体書き終わって、参考に、昔のbaroque-concertの演奏風景をuploadしようと思ったら、Facebookでは、動画が再生されない拡張子だったので、拡張子を変更して、作業を始めようと思ったら、元の文章が無くなってしまって、幾ら探しても、見つからなくなってしまったのですよ。
文章を移動しようとしても、Facebookには、「文章が保存がされていない」と出て来るのに、保存しようと思っても、その肝心要の文章が見当たらない!!
ネットでそういった場合の対処を調べても、そういう状態のコメントが全く無い。
結局見つからないままに、1,2時間の作業が全く無駄になってしまった。
本当に、私とFacebookは、相性が良くないようですな!!
すっかりと、やる気が無くなってしまったので、programでの、細かい説明やご紹介等々は、後日、改めて書く事にします。
説明の文やご紹介の文が書き終わる前に、baroque-concertが終わってしまったら、その時には、ごめんなさい!!
でも、やる気の起こらない作業はしないのが私の建前なので・・・!!ハイ!
てな、投げやりな事を書いて、モノの、小一時間もしない内に、またぞろ、ヨッコラショっと、文章を書き始めました。
いつもの事ですがね???
チラシ裏です。
ほんの小一時間程ではありますた、ひと眠りが出来たので、少しずつ、気を取り直して、元の文章を思い出しながら、書き始めています。
先ずは、私とbaroque音楽との関わりを、回想録風に書き始めます。
私が若かりし頃の、未だに音大生であった時には、baroque音楽と言っても、Vivaldiの四季と、Mozartのアイネクと、Bachの組曲ロ短調(所謂、G線上のAriaですが、)しか、知られていなかったのですョ。
それ程遅れていた時代です。・・でも、日本が・・、という意味ではなく、世界の諸事情を見ても同様に、古典やbaroqueは、完全に忘れ去られた世界でした。
I MusiciのFelix Ayoさん達がその3曲を携えて世界中を演奏して回った頃の時代です。
しかし、その当時、既に、私は音楽大学で自分の私設のorchestraを作って、HändelのConcerto Grossoや、Bachや他の作曲家達のcantataの演奏をしていました。
下段の写真は、大学祭でのcantataの演奏風景で、右側の大型Cembaloは当時は日本にはNHKを含めても、2,3台しかなかった Neupertの大型二段のCembaloです。
勿論、指揮しているのが1年生の頃の私です。
演奏しているのは、大学生と講師の先生達の混合orchestraです。
皆、私の呼びかけで集まってくれました。
10月21日 16:04
München時代
Münchenの下宿で、My Reiseclavichordを弾いている所です。
Münchenの音楽学校では、学校の食堂で、Karl Richter教授とよく激論を交わしていた以外には、baroqueや、古典の演奏に関する事は、何もありませんでした。
私は、あくまでGenzmer先生門下の作曲科の学生だったのでね・・。
他の勉強が忙しかったのですよ。
しかし、学校以外では、フランス人の放蕩無頼のpianistと、知り合いになって、Münchenのサロン・コンサートに招かれて、彼のCouperinのPianoの演奏を聴いて、その自由な装飾音の美しさに、ショックを受けてしまいました。
人格的に色々と問題がある彼なので、proのpianistになる事はないと思いますが、その演奏は、私の日本流の、或いはドイツ流の、装飾の演奏に、衝撃を受けたのですよ!!
何と、自由な、歌うようなornamentで、本当にCouperinなのですよねぇ~??
私はそれまで、何を弾いていたのだろう??
日本の音楽大学で何を学んで来たのだろう!!
これは超、ショックな開眼させられるカルチャーショックな体験でした。
その後、知り合いの知り合いだった彼の名前もすっかり忘れてしまったけれど、そのフランス風な、小粋な、小洒落た演奏のstyleは、今もしっかりと参考にさせて貰っていますよ。
もっとも、彼の生き方も、すっかりと小洒落てしまって、小粋で良いのですが、おフランス風では、生きて行けないだろうね。
典型的な、gigoloタイプかな??まあ、それも楽しくって良いのかな??
あたしゃあ、知らん事なので・・・・???
(勿論、彼から迷惑を受けた事等は、一度もありません。友達を大切にするタイプだったのでね・・??)日本人の私の親友達とは、全く違います。
München時代には、私はMünchenの郊外のとても風光明媚な教会の街である Fürstenfeldbruckの街に部屋を友人達とシェア‐をして(その当時はそんな言葉すら無かったのだけど・・・)住んでいましたが、同じ街に住んでいる、ビヤラス門下の作曲家の友人の家に時々遊びに行きました。若い美人の奥さんと、何時も歓待をしてくれました。
彼がイタリアのコンクールを勧めてくれたのですが、彼は落ちてしまって、私が一位で入賞してしまったので、彼と合う時には、対応に苦慮してしまいました。
Genzmer先生も、コンクールに入賞した事で、先生の態度が一新したので、ドギマギしてしまいました。
彼の日常は、毎日、その日のcantataで起きて(cantataは本来は1年365日分なければなりません。Bachも1年分のcantataの作曲を試みたのですが、BWV.1番からBWV.200番までの200曲と、世俗cantataの数十曲しか作れませんでした。)、一日を始めるそうで、彼の影響で、私もcantataの勉強を始めました。
Münchenから帰国して直ぐには、当時の私が指導していた学生達を引き連れて、教会でcantataの演奏活動をしていました。
cantataの発声法は、とても特殊で、日本では指導出来る先生がいなかったので、音大の卒業生で当時の私の弟子に、cantataの発声法を指導して、教会回りをしていた分けです。
日本に帰国してからは、生活のために、大学で指導をしていたのですが、大学は努め始めた時から、5年以上はいないように決めていました。
何もしなくても、生活出来るので、「大学ボケ」が起きてしまうのでね。
30年前に作ったノートを読み上げるだけで、冗句も30年間変わらないでも、生きて行けるので、それは怖い事ですよ!そうは言いながらも、大学という所は居心地の良い所で、ついつい5年以上も(35歳までも)居てしまいました。
自己嫌悪と反省です。
10月19日 12:59
大学で講師をするのは、結構楽で心地よいので、「3年間で辞めよう!」と思っていたのにも関わらず、何と、5年以上も居座ってしまいました。
齢、35歳になって、慌てて、学校を退職する事にしました。
大学を辞めてからは、2,3年間はモラトリアム期間で、何もしていなかったのですが、当時の文部省の関係者の知り合いの人から、実際に教育論を実践するように説得されて、5年間の限定で芦塚メトードを実践する事になりました。
私が指導して生徒が理想の状態になるのは、当たり前だそうで、そうではなく、私が指導した弟子が私が指導した生徒と同じlevelになる事が、methodeである事の証明であり、私が指導する意味があるという事だそうでした。教育は根本的に嫌いなので、固辞したのですが、他にそれが出来る人がいない・・という、褒め殺しで、しょうことなしに、約束させられてしまいました。
その最初の生徒達が、「教室を卒業しても教室で働きたい」と、言い出したので、仕方なく、教室を会社にしました。
・・・と言う事で、本当ならば、methodeを提供するだけで良かったのですが、私自身も指導を実践して見せる事になってしまいました。
10月19日 13:13
日本では、「音楽大学を卒業すると、proとして通用する」と言う事が一般的で、その後、勉強を続ける事はありません。
音楽大学で学んだ技術や知識が、proとして社会に通用するという思い込みがあるのです。
医者であろうと、職人さんであろうと、技術をマスターする事は生涯の学びなのですよね~ぇ??
私の音楽への姿勢も、・・或いは、私の弟子達への教育方針としても、proという人種は、「生涯、勉強を続ける」という姿勢が、有る人達の事を言う分けで、当然、教室の先生達にも、弦楽器の「ルーツ」を学ぶという事で、baroqueの研究をする事が、即ち、正しい弦楽器の奏法を学ぶための、最短の勉強=所謂、王道を学ぶ事になるのだ、という方針で、baroqueの奏法を勉強させる事にしています。
1960年代迄の、「baroqueや古典派の音楽への知識」は、非常にお粗末なもので、情緒的、感情的な謝った解釈で演奏されていて、それがbaroqueの音楽と認識されていて、本当の時代考証からは、程遠いものでした。
今では、笑い話としか思えないような弦楽器の奏法が罷り通っていました。・・と言うか、今でも、日本の音楽大学の中では、そう言った100年、200年前の、誤った解釈に拠る演奏法が今でも学校の中では、罷り通っているようなのですが、本当に困ったものです。
100年前、200年前のeccentricな奏法がこんにち迄も、罷り通っているのですから、教育関係の常識は信じられないものがあります。
もし、それが300年前だったら、それこそperiod奏法になるので、良かったのにね??
・・・そうは、都合良くは行かないのよね??
1970年頃からは、楽器博物館等に保存されているBachやHändelのoriginalの楽器を、再び、演奏出来るように修理、修復したり、また古い時代のoriginalの設計図から、当時の楽器が復刻されるようになって、それまで言われていた誤った弦楽器やPianoの奏法等が、正しく、訂正されるようになって来ました。しかし、それは極、一部の「金銭感覚を無視したお話」で、(つまり、当時の楽器をそのまま復刻しようと思ったら、とてつもない時間と労力と、資金を必用とするのですよ!!) ・・ですから、一般のマニアックな音楽家達が「periodの楽器」を買えるようになったのは、80年代に入ってからのお話です。
・・と、言うことで、私も私財を投入して、baroque-violinや、baroque-cello、Cembaloやorgel等を、購入して教室の先生達に貸与しました。
1990年になってからは、世界でも、未だ数少ない人達ではありますが、現代になって初めて、period instrumentsによるperiod奏法の演奏がおこなわれるようになりました。
その時には、既に、教室の先生達のbaroque楽器によるperiod奏法の演奏活動も、同じ時期に開始していたのです。
世界のperiod instrumentsによる、period奏法の演奏と同じ時期に、synchronicityで、教室の先生達の演奏も開始されました。
所謂、「ぶなコン」や、銀座の画廊でのconcertです。
勿論、いきなり、period奏法が出来る分けでは無いので、その前の80年代に、充分なperiod奏法の研究や練習の準備期間を経た上での90年代からの演奏活動の話になるのです。
ですから、私達の古楽器の演奏は世界最先端の演奏になるのですよ。
https://www.youtube.com/watch?v=VRo-SOD3beI
Facebookの動画とは別の日にちのvideoです。
baroque音楽のperiod奏法は、超maniacな世界なので、日本でも2,3の演奏団体がありますが、集客が悪く・・、・・と言うか、殆ど客席には人がいない状態で、偶然私が通り掛かって、聴きに入った教会での演奏も、演奏者が10名近くいるのにも関わらず、客数が(その演奏者の生徒達関係者だけで)それも10人いるかいないか??・・の、惨状でした。
その当時は、私達も、定期的に、年、2,3回のペースで、baroque-concertを、近所の喫茶店で開催していました。その喫茶店が、私達のperiod奏法の発表のhome-baseでした。勿論、その喫茶店で、だけ演奏活動をしていた分けではなく、その他も、銀座の画廊での毎年のconcert活動や、新宿のオペラシティーでの、7,8ヶ月に渡る隔週の超hardなconcert等を、やってまいりました。先生達も未だ若かったのでね?
当時、ヨーロッパ帰りで、メルクスの元で4年間baroqueviolinを勉強して来た人が「帰国して4年間以上経つのに、一度もbaroqueの演奏活動をしていない。」とぼやいていましたが、私達の「ぶなコン」(近所の喫茶店のconcertで=ぶなコンです。)では、曲目と演奏する日にちが決まって、その報告を喫茶店にすると、その2,3時間後には喫茶店の30席の客席が一瞬で、sold outになって、或る時には、私の居場所もなくて困ってしまいました。
千葉の教室のお母様達が「先生達の演奏を聴きたいのに?」との話がありましたが、日にちを喫茶店に連絡する時に、予め席を予約しておくように店のオーナーにお願いして、やっと席を取る事が出来ました。
私達のbaroque-concertは、それこそmaniacなperiod奏法のconcertなので、私がbaroqueのperiodについての講義をしながらの、まるで、大学の講義のような、の面白くないconcertだ、・・と思っていたのですが、結構な集客力ですっかり驚いてしまいました。
音大生達や卒業生達、オケマン達が、楽しい有名な曲を集めて、その喫茶店でconcertをやっているのを良く見受けましたが、30名の席でも、半分も入っていないのが、普通で、私のconcertは、(どこが面白いのか??)毎回、異常な集客率でした。baroqueのperiodでは客は呼べない・・というのは、音楽家の誤解のように思いますがね。
はてさて、今度の千葉のconcertではどうなることでしょうかね???
それはそうと、こう言う事を書くと、私達の演奏がperiod、所謂、baroqueや古典派の時代に限られているように、見受けられてしまいそうですね??
勿論、そういった演奏活動とは別に、ロマン派から、近現代迄のsoloやensembleの演奏活動も続けていたのですよ。
但し、Classicに限る・・という、厳密な制約で仕事を引き受けていたのです。
当時は先生達も若かったので、生徒達を指導しながらの、演奏活動も無理なくこなしていましたよ。
教室から、教室の先生になって、10年以上も演奏活動を続けていたのですが、私の突然の入院や、先生達の結婚、出産等々で、教室に残った先生に指導上の負担がとても大変になってしまい、やむなく、演奏活動の休止になったのですが、教育という名目に託けて生徒達と一緒に、癌センターや大崎、溝の口での、ボランティアの活動は、休止する事なく続けてはいましたよ。
それが、次の八千代のconcertにつながって行きます。
10月20日 4:26
10年以上も続いたbaroqueのconcertでしたが、私の突然の入院や、先生達の結婚出産等々の指導者の不足の事もあって、教室の存続に関する経営上の問題も起こって、それ以降、先生達の演奏活動は、すっかりと、ポシャってしまいました。
(教室としては、教室外の一般音楽大学の出身の先生を雇う事もやぶさかではないのですが、教室の方針と音大生達の考え方の根本的な違いや、指導者、演奏者としての実力不足で、部外の人を雇う事は、出来ないのですよ。
だって、日本の有名な音楽大学を卒業して、洋々と教室を訪れて、子供達と一緒にオケ練習を体験して、小学1年生のちびちゃんに「そんな簡単な曲の初見も出来ないの??」と言われてしまっては、次に教室に来るだけの勇気は無いわよ・・・な??
教室と一般の音楽大学の水準の違いなのですよ。) 細々と、ボランティアの活動や対外出演は生徒達と一緒に続けていたのですが、period奏法としての研究の演奏活動としてのconcertは、その後の、冠動脈の手術のための再入院とバイパスの手術等々で、すっかりとお座なりになってしまいました。
10月20日 5:11
子供達を含めて、演奏活動を何故するのか??と質問をされたことがあります。
音楽大学等で学んでいると、音楽を勉強する事は音楽の技術を学んでいる・・という事と勘違いされてしまいます。
必死に、先生の言う通りに技術を学ぶと、その延長線上に演奏家としての未来が有る!と言った誤解です。
音楽は自己表現なのです。
自己表現は対象があって、その人達に語り掛ける事で、始めて学ぶ事が出来ます。
一回でも多く、人の前で演奏する事が、上達の一番の早道、所謂、王道となるのです。
10月20日 4:32
10月20日 5:21 ·
baroque-concertのお話です。
baroque-concertのprogramの中の「Vitaliのchaconne」のお話です。
皆さんが知っている「Vitaliのchaconne」は、実は、Ferdinand Davidという人のarrangeによる作品なので、実は「Tommaso Vitaliの作品」というよりは、「Davidの擬古典の作品」という事になります。
You Tube等々で、探してみても、総ての演奏がFerdinand Davidの版による演奏で、originalの古楽器によるbaroqueの演奏は一つもありませんでした。
また、2,3冊のDavid以外の人(Charier版等)の校訂の版も出版されているのですが、総てDavid版を底本にしているので、擬古典としての楽譜になっているので、You
Tube同様に、periodとして演奏する楽譜には、なっていないので、period奏法用の楽譜は、全く出版されていませんでした。※)
Tommaso Vitaliの直筆譜と思われる(・・というのは、Attributed toと書かれているので・・ネ??)楽譜が、Leipzigの図書館にあって、昔々、そのfacsimile版が発売されたので、早速、購入しました。10年以上も前の事です。(私は「作曲家の直筆楽譜」を集めるのが趣味なので、ハイツの自宅には、Bachの直筆譜や、多くの作曲家達の直筆譜、或いは「Stravinskyの春の祭典」のsketch等の貴重な楽譜が大量にあります。)
(唯一、Leipzigの図書館のoriginalのfacsimileを音符に直した譜面が出ていたのですが、それはviolinとbasso continuoのcelloの楽譜のみのCembalo譜が書かれていない2段譜で、その楽譜で直接演奏をするのは無理な話でした。
・・という事で、今回のbaroque‐concertの演奏のためには、「楽譜起こし」から始めなければならなかったのですが、直接、facsimile譜から、楽譜を起こすのは、判読不能な箇所が多く、既に校訂者が判読して、印刷の楽譜にしてあるoriginalの譜面(勿論、2段譜のままなのですが・・)を手に入れて、今日(10月の19日の水曜日に・・)斉藤先生のbaroque‐violinと牧野先生のbaroque‐celloと私のCembaloの初見で、初練習(初合わせ)をしました。勿論、そのviolinのpartとcelloのpartだけが書かれた二段の bezifferten Baßの譜面でCembaloのpartを弾いて・・、という事です。
ところが、Cembaloの右手のpartは bezifferten Baß(数字付き低音)の数字に從って、Cembaloの演奏を始めたのですが、楽譜上に書かれている色々な間違いの多さ!!に・・、特に bezifferten Baß(数字付き低音)の和音を表す数字の間違いが多くて、殆ど、小節毎に和音の訂正をしながら演奏しなければならなくって、全く、練習にならなくって、弾き通す事が出来ませんでした。
・・・という事で、急遽、Vitaliの練習は中止にして、その場で、斉藤先生にmelodieのpartを弾いて貰いながら、小一時間掛かって、楽譜に間違いの箇所に赤入れをしました。
(下に赤入れ途中の楽譜を掲載して起きました。総てのPageがこのように、赤入れされてしまいました。)
・・ここまで来ると、もう校訂の領域やkritikの段階ではないよな??
私もこの歳になるまで、色々な楽譜を見てきましたが、ここまで間違いだらけの譜面は見た事がありません。
この楽譜を底本にして、Cembalo譜を作り上げscoreを作り上げるのは不可能な事です。
当然、scoreとして、楽譜を出版するのは不可能なことです。
それで、楽譜が出版されていなかったり、periodの演奏が一つも無かった一番の理由ですよね??
という事で、「無いものは作ろう!」という私の人生哲学の通りに、今作業途中の「Händelのsarabandeのperiod‐version」をハイツの自宅に戻ってから、大急ぎで仕上げて、その作業のまま、朝まで掛かって、半徹夜でchaconneのoriginal-versionの楽譜の作成に取り掛かった所です。
思いの外、finaleに音符を入力する作業に手間取って、2日掛かりの作業となってしまいました。
私が余りにも大変そうにしているので、斉藤先生が「finaleの入力だけなら、手伝ってあげる」と言ってくれたのですが、・・・でも、私のfinaleの入力の作業は、楽譜上に書かれている bezifferten Baß(数字付き低音の)数字の間違いを探して、正しい音符(数字)に直す所からなので、そこの所は専門的な知識を要するので、誰にも手伝っては貰えません。
bezifferten Baß(数字付き低音)の数字が、もしも正しい数字で書かれていたとすれば、その数字を実際の音符に直す作業、所謂、「楽譜起こし」の作業は、単純作業になるので、私にとっては、Cembaloをcello譜を見ながら即興で演奏した方が数倍早い、退屈で面倒くさい作業になるのですよ。
bezifferten Baßの数字が、正しく書かれていた場合には、右手のpartを音符に書き起こす作業は、上級生の生徒達に数字譜をCembalo用に、Realisation(楽譜起こし)を、させた方が勉強になって良いのですが、今回はbaroque‐concertの日にちが迫っていて、timelimitが直ぐそこなので、生徒達に書かせるだけの時間のゆとりがありません。11月の23日が、baroque‐concertの本番の日までに作りあげるのではなく、それまでにensembleの練習をしなければならないので、今更、楽譜を作る作業に時間的な余裕は無いからです。
という事で、音符起こしの単純作業ですら、私自身の手でしなければなりませんでした。
折角、私が労力を費やさなければならないのならば、楽譜に訂正する理由や、何故、そう訂正するのか?という方法論のlectureを、しっかりと書いておけば、演奏する人達の参考にもなるし、・・という事で、kritikを楽譜上に書き込んで起きました。
このkritikの文章の入った楽譜は、実際の演奏に使用するには、向きませんが、finaleというソフトでは、「書き込まれた文章を削除する」のは一瞬なのですから、その書き込みのあるscoreと無いscoreの2冊のscoreを作って保存しておけば、良いだけなのだからね。
前にもお話をしましたが、日本の音楽大学でもCembalo科のclassがある学校は、随分多くなって来たように見受けられます。
でも、Cembalo科のlessonの内容としては、baroque音楽の勉強としては、Pianoでやっていたlessonの延長線上のままに、Pianoで楽譜を練習して行き、それをCembaloでlessonして貰う・・というだけのありきたりのlessonなのです。
でも、「Cembaloを弾く」・・という事と、「Cembalo奏者である」という事は、全く別の次元のお話になります。
Cembalo奏者である条件では、Cembalo譜のmelodieにornament(装飾)を入れて演奏したり、即興でepisodeを弾いたりしなければなりません。
もっと、専門的に要求するのならば、 bezifferten Baßのcello譜を見て、即興で右手のpartを演奏出来なければならないのです。
つまり、Cembaloを演奏するだけならば、Pianoが弾ければ、基本的には(Cembaloのtouchの事などを厳密に言わなければ・・)誰でも演奏する事が出来ますが、私達が普段period奏法として演奏している曲の楽譜は、専門の人達が弾く楽譜として出版されているので、 bezifferten Baßの右手のpartは、参考までに・・という意味でしか、書かれていないのです。つまり、殆どのproのCembalist達は、右手のpartが書かれている譜面であったとしても、その右手のpartは参考程度にして、即興でその右手を演奏していくのです。
つまり、その楽譜を見ながら、和音や音符を補填、補充して演奏しなければならないのです。
しかし、日本の音楽大学のCembaloのclassで、そういった指導がなされる事はありません。では日本では、何故そういったCembalo奏法の技術を指導しないのでしょうか??
それは、装飾や即興の技術に関して、日本の音楽家達には間違えた理解があるからです。その顕著な言葉をnetで見つけました。それは「即興やornamentの技術は、神から与えられた能力であり才能なのだ!」という一文です。
つまり、日本の音楽家達は即興やornamentをinspirationや、感覚的、情緒的に付ける・・ものである・・と、思い込んでいて、学習し、学び取る事が出来るものである・・とは考えないからなのです。
話をチョッと元に戻して、・・・・
また、日本人の指導者達は装飾音が出て来たら、非常に素早く鋭く演奏させる傾向があります。この勘違いも、多くのPianoの指導者達が、普通に信じて疑わなく指導しているのですが、その間違いの演奏法がどこから来たのか、理解不能な事で・・
・・これも、考えられない日本独自の、勘違いです。
実際には、trill一つ取っても、非常に多くの奏法があり、楽譜を解釈する時に、その曲の演奏に合わせて、ornamentの種類や速度等を選ばなければなりません。
私が子供達にlessonをする場合には、一番最初のbaroqueの音楽である、「Bachのinvention(!)」※)を子供達に教える段階で、書かれているtrillに、accentを表すtrillや、弱拍を表すtrill等を蛍光ペンで色分けさせ、そのように、trillの奏き分けをさせます。
※)Bachのinventionは、殆どのPianoの指導者達は、一般の教育教材であるかのように錯覚して、Pianoの指導教則本としての指導をしています。
そのinventionが、Bachの手により、baroque時代に書かれた作品である‥・という事は、何処かに置き忘れたままで・・ネ??
確かに、即興でepisodeを入れたり、eingangを演奏するのは、ある程度の、才能、能力は必用なのかも知れませんが、普通にbaroqueやrococoを演奏する時には、装飾音の一覧に書かれている記号を譜面のその表現に必用な部分に貼り付けるだけで、充分なbaroqueやrococoの演奏表現が出来るようになります。
その一例として、ひとつの教科書(template)として、その当時に課題として勉強をさせていた、baroqueの室内楽であるHennry purcellのtriosonateのg molには、一切の即興やepisodeの類は入れないで、必用な場所に必用なarticulationを、ornamentを書き加えるだけで、表現させて演奏させています。
たったそれだけの事で、立派なbaroque音楽の演奏になからですよ。不思議な事に・・ね??
https://www.youtube.com/watch?v=25FKdc-KuPs
You TubeにuploadしているこのHennry purcellのtriosonate g mollの曲は、勉強している弟子達のために、一切、情緒的感情的な装飾やepisode等々を入れないで、演奏表現が必用な所にそのornamentの記号だけを付け加えて、arrangeしたものなのです。のっぺら坊の裸の旋律が古式豊かなbaroqueの演奏に聴こえて来るので、不思議なものです。つまり、それだけの知識を持つだけで充分なのですよ。
それはそうと、改めて、1年半ぶりに、You TubeにupしてあるHennry purcellの動画を見たのだが、パソコンの画面上の動画を、パソコンの操作だけで画面をつなぎ合わせて動画の編集ソフトで作ったのだが、編集ソフトが余りにもヘボくて、画面上の楽譜のPageが切り替わる毎に、動画の画面がブチッ!と切れて、間に緑のnoise画面が入って来て、非常に目障りで公開するには、余りにも良くない。
パソコンに入っているソフトを使用して、画面上だけで編集をしようとしたのが、良くなくて、結局、パソコンのソフト間のendlessの作業の「どつぼ」にはまってしまった‼
それだけなら、まだ良いとしても、finaleでtempoを設定する時に、何を焦り捲っていたのか、ゆっくりしたtempoの設定は良いのだが、早い部分のtempoの設定が焦りまくっていて、苛ついた情緒が丸出しだ❗
やはり、uploadされた動画を削除して、新たに同じ動画を作り直さなければならないのかも知れないが、simple is Best‼で、変なパソコンのソフトを使用しないで、単純にパソコンで再生しているfinaleの画面をそのままvideocameraで録画すれば、何も起こらなかったのだよ??
(気を取り直して、次の日の早朝、22日の朝早くにfinaleのtempoの設定の変更をしました。これで、パソコンの苛ついた演奏はなくなると思います。でも、この演奏を動画に反映させるには、元のURLが死んでしまうのよね。動画の差し替えは、基本的に出来ないのよネ。)
You Tubeにuploadされている、このパソコンによる動画の映像は15年の5月27日と31日に二つuploadしました。但し、5月の27日の分の動画はYou Tubeの方は削除したので、Facebookでだけ、見る事が出来ます。その他に実は10月の発表会でも、このHennry purcellのchaconneを「baroqueの室内楽の部」として演奏しています、がその方が生の音なのですが、その演奏はuploadしていません。
この時の発表会でのこの曲の課題は、生徒達の「period奏法への初めての試み」であり、私のperiod奏法の生徒達への指導、lectureである。 勿論、斉藤先生、牧野先生の先生達は、これまで何度もperiod instrumentsでの公開演奏をしているので、演奏上の点では、何の問題も無いのだが、生徒達にとっては、period奏法でbaroqueの楽器で演奏するのは、始めての経験なので、やはり相当難しい事なので、発表会での演奏に関しては、period奏法の技術が未だに未熟なので、公開するだけのNiveauに達していない‥・という事で、動画のuploadはしなかったのだが、改めて聴いて見ると、音が汚いのは寧ろ、反省会用の圧縮された音源のせいだと思われるので、正しい録音をこれから聴いて見て、音的に問題がなければ、パソコンの音源よりも、マシなので、動画を差し替えようかな?と思っている所です。(ここのコメントは16年の10月の22日のお話です。)
日本の自称Cembalo奏者の人達には、そのornamentを付けたり、episodeを加えたりするための技術を持っている人はいません。つまり、音楽大学では、そういった高度な技術指導して貰ったり、学んだりする事は無いからです。音楽大学の先生達がその技術を持ち合わせていないからです。(美紀先生は、教室の演奏活動をしている時に、必然的にその技術を、私からうるさくlectureされているので、「ここの所は32分音符のepisodeを入れて・・!」とか言うだけで、そのように即興で演奏出来ますがね。)
つまり、ornamentを付けたり、即興をする事は、一般で言われているように、天与の才能は、必用ありません。ornamentの意味を知り、楽譜上で、その必用なornamentの種類や場所を理解出来れば良いだけなので、教室の中学生でも、その程度は出来るようになります。(勿論、ちゃんと、Cembaloのlessonを受ければ‥・という事が、最低の条件ではありますが・・。)
※)「以下の文章は10月29日に差し込みをした新しい文章です。」
《・・・・「全く出版されていない!」・と思ったのは、私の勘違いでした。
10月20日のFacebookにuploadした後で、「Vitaliのoriginal‐versionが出版されていない・・というのは絶対におかしい!」と思い直して、私が探している検索条件を変更して、探し直す事にして見ました。
つまり、以前、私が書いたように、「Vitaliのchaconneの手書き譜」は直筆とは思えないという私の仮定を正しいとした前提で考え直して見ると、もし、図書館にあるVitaliの原譜が、「写本」だったら、UrtextというTitleは使用出来ないし、originalというTitleも使用する事が出来ません。
それなら、「出版社はどのように、楽譜を出版するのか?」・・という事に留意して、どのように探したら、periodの譜面を探す事が出来るのか??という事を考えました。
「伴奏のpart」を「伴奏」として書いてあるのは、間違いなくDavid版なので省区として、Piano伴奏と書いてあるのも、勿論、David版です。
それなら、「violin e basso continuo」とか、「Realisation・・云々」と書いてある楽譜に限定して探して見ると良い‥・という事で、改めて探し直したら、あったのよね!!これが・・・!!
それがRicordi版と、Bärenreiterのarchive版です。
早速、その楽譜を取り寄せて、昨日(28日に)手に入った所です。
・・今日中には、checkを開始します。
その版を、先に手に入れる事が出来たら、「Ashizuka‐version」は、作る必用がなかったのでは??・・と、先生に言われてしまったのですが、実は、そうでもないのよね??
未だ、昨日の深夜に、ホンの一、二分だけ、楽譜をチョイ見せして貰ったばかりの段階なのですが、それでも、既に、Ricordi版もBärenreiter版も、帯襷なのよね!!
伴奏譜やviolinのmelodieも含めて、まだ水準(Niveau)には達してはいないのですよ。
そこに、Ashizuka-versionを作った意味があります。 》
二分の三拍子!
初めて見ました!
10月20日 6:37
キリスト教の世界観では、三位一体の三の数字が完全な調和を表す数なので、完全を表す円は、3拍子を意味します。ですから、ヨーロッパの人達にとっては、3拍子の方が身近な拍子になります。二拍子は、「不完全な・・」とか、「欠けた」拍子である・と言って、円を欠かしてCのカタチにして4分の4拍子を表しました。更に、欠けたCに更に縦線を入れて、2分の2拍子を表したのですよ。 Beethovenの英雄Symphonieとか、Mozartの魔笛の最初では、Es Dur(♭が3つ付く調性で、Cの音からから数えて3番目の音であるEsの和音)を、しかも3回鳴らして、天上世界や神の世界を表現します。ですから、baroqueや古典の作曲家達に取っては(というよりもヨーロッパの民族に取っては)、基本の拍子は3拍子なのですよ。日本の民族音楽の歴史の中では、3拍子は一つも登場しません。日本民族が3拍子を感じるのが弱い所の由縁です。芦塚メトードで子供達を指導する時には、拍子感を身に付けるために、基本のdanceのstepを教えます。(danceのstepであって、danceを教える分けでは無いのですよ。私はdanceは出来ないのでね?)基本的に、2拍子のdanceは、マーチのように、直線運動で、所謂、舞曲は回旋運動になります。それはstepから来る原則なのです。1で軸足を取って、2,3と回転するのですよ。だから、ウィンナー・ワルツのように、stepが端折って聞こえるのです。PolonaiseやMazurkaのような、舞曲のrhythmを覚えると、とても楽しいですよ!!Pianoを演奏しているのに、自分が踊っているような気分になれますからね?? 以前、智子ちゃんにPolonaiseのrhythmを教えるのに、自治会館で、バレーダンサーがPolonaiseを踊る時にする「ジャンプをして空中で足を3,4回交差させる」のをやって見せたら、「え~ッ、踊れるんだ??」と、ビックリしていました。でも、1回のstepだけで、もう青息吐息なのですがね??balletで見ているので、stepだけは覚えているので、再現は出来ます。1回だけならばね??
10月20日 7:16
楽器はモダンになってしまいますがオリジナル版弾いてみたいです。
10月20日 9:06
今私が作業しているCembalo譜のRealisationは、美紀さんがCembaloの即興で演奏が出来るので、私の「譜面お越し」は、一番単純な形の面白くも可笑しくも、何もない数学的で単純なRealisation譜で、和音が聞き取り易いようにorgelのpartで書いています。baroque音楽では、皆と合わせる過程で、「ああでもない!こうでもない!!」と、面白可笑しく作り上げて行くのですが、そのaboutさがなんとも、楽しいのですよ!!そこの所はjazzのセッションと似ているかな?? 同じ演奏は二度と出来ない!!そんな感じの譜面で良かったら、出来上がったら譜面を差し上げますのでよ、是非、どこかで演奏してください。You
Tubeには皆無なので、面白いですよ!!勿論、楽器はmodernでも、CembaloではなくPianoでも良いと思いますよ。
10月21日 15:45
折角、Tommaso VitaliのchaconneのAshizuka-versionを作り終わった後の事なのですが、Vitaliのchaconneの出版カタログの楽譜を片っ端から調べて見たら、violin&basso
continuoの譜面がRicordi版とBärenreiter のarchiveの部門で出版されているのが分かったので、早速手に入れました。この楽譜が出版されているのなら、私がkritik‐Ausgabeを作る事も無かったのに、・・と思ったのだけど、やっぱり、色々と解釈の違いや、Realisationの違い等々、色々と微妙で、やはり、面倒くさかったけれど、結果としては、自分で校訂していて良かったと思いました。 でも、一般的には、通常のchaconneのbaroque‐versionとして、演奏する時には、二つの校訂を見比べて,良いとこ取りをすれば、それで充分なのではないか??・・と思いました。この2冊を探し出せなかった理由は、2冊とも、「original‐Ausgabe」とか、「Urtext‐Ausgabe」という文言が入っていません。つまり、originalの底本にされている楽譜が、Vitaliの直筆である・・というよりも、写本の可能性の方が高いので、Urtextという肩書が入らなかったので、私が探せなかったのですよ。 でも、絶対に、Realisationされた楽譜があるはずだと思って、楽譜のTitleに「violin&basso
continuo」という言葉が入っているのならば、所謂、数字付き低音のRealisation譜なので、原典に近い版である・・と推論して、改めて、楽譜を探してみたら、この2冊をピックアップする事が出来ました。 私のversionは、kritikだけで、basso
continuoの数字のRealisationの譜面はなるべく単純に、数学的に書いていますが、他の2冊は、売るための演奏譜として、音の動きを留意して書かれているので、2冊を比べて見ると、passageによって、どちらの方が良いのかは、それぞれで、判断に苦しむ所です。 それに伴奏がCembaloでなく、orgelの場合でしたら、私のsimple
is bestのversionの方がより良いかも知れませんが、反対にCembaloで伴奏する場合には、勿論、物足りないと思いますよ。
10月29日 1:31
今日は10月30日(日曜日)の早朝の3時半です。昨夜の土曜日の夜は、すっかり、気分が悪くなって、食事もしないで、ハイツに帰って来て、総てそのままにして、布団に潜り込んで、今起き出して、荷物の整理を始めた所です。ついでに、手に入れたTommaso
VitaliのchaconneのRealisationの譜面を見ている所なのですが、これが超、酷い!Ricordi版の方は、有名な指揮者であり、昨年亡くなったClaudio
Abbadoのお父さんであり、高名なviolinistでもあるMichelangelo Abbadoの校訂した版なのですが、これがやはり、一昔前の、Realisationで、和声法の原理を良く知っていないズブの素人のarrangeなのだよね??BachやHändelなら絶対にしない和音進行を平気でしているのよね?こりゃ~、問題外だよな・?? Bärenreiter版は、Archivだけあって、妙な演奏効果を求めないで、和声進行は未だマシなのだが、
bezifferten Baßを、勝手に書き換えているのよね?? ホンと帯襷なのよね??困ったものだ!!Ricordi版が間違いだらけなのは昔から、誰もが周知の事実だが、Bärenreiter版
ですら、勝手な解釈をするのは、幾ら底本が写本であったとして、その数字が信用が於けないとしても、許せない。
今日は10月21日(20日の夜という事)の深夜3時半です。間違いだらけのVitaliのchaconneの楽譜の訂正と bezifferten
BaßのRealisationが終わって、kritik‐Ausgabeの出来上がりですぞよ!!さて、今から、orgelの音源で聴きながらwineでも飲んで「独り祝杯」でも上げるか???
蛇足ですが、勿論この動画はYou Tubeには公開していません。このFacebookだけで閲覧出来る閲覧限定です。
10月21日 15:00
Tomaso Antonio Vitaliのchaconneは、こんにちではFerdinand Davidの作品である事を疑う人はいません。[Davidは、かの有名なviolinistで、作曲家でもあるシュポア‐とハウプトマンに師事して、頭角を表した演奏家であり、Leipzigに在住し、Leipzigの音楽院で教鞭を取っていて、Mendelssohnのviolinconcerto e
mollの初演をした人でもあり、e mollのconcertoの作曲に関しても、Mendelssohnへ多くの助言をした人でもありました。・・と、言うことでLeipzigの図書館で、Vitaliのoriginalの楽譜を発見して、Pianoの伴奏を付けて、この曲を世に広めた人です。・・ですから、今回のfacsimile版はDavidが曲を作る時に、底本にした楽譜であると思われます。]
しかし、このfacsimileの楽譜が、Tommaso Vitaliの直筆のoriginalの楽譜であると言う事は、にわかには信じ難いものがあります。 その主な理由は、曲の和音を示している
bezifferten Baßの数字が、余りにも間違いだらけであるだけではなく、melodieのpartも、、間違えて書かれている場所が多過ぎるからです。つまり、作曲家自身が書いた譜面ならば、そんな間違いは絶対にしないのよね!! 書き間違いの意味ですが、別にチョッとしたmelodieの書き損じ・・と言う意味ではなく、明らかに素人の書いたような、音符の読めない人が一生懸命に書いたような、有り得ない必然性のない音符の間違い・・それは、調性のなかではmelodieの体を成さないと言った明らかな間違いの箇所・・が数多く見受けられるからです。 それはそうとしても、音符はとても書き慣れている人の手によるようです。あたかも、Bachの筆跡よりも、更に美しく繊細な筆跡であり、Bachと寸分違わない筆跡の、Bachの奥さんであるAnna
Magdalenaの写本を思い起こさせます。 当時は、コピー機も写真も無かったし、印刷するにも、作曲家自身の手で、銅板を削って音符を書き込んだ大変な作業だったからです。一般的には、殆どの楽譜が広がって行く場合には、曲はその曲を欲しい人自らが、手で書き写して広がって行ったのです。だから、当時に書かれた楽譜であったとしても、作曲家自らの手で書かれたものである、可能性は低いのです。とう言う前提の元で、Leipzigの図書館に書き添えられている「Attributed
to・・」の文字が意味を持って来るのです。 originalではないにしても、Vitaliの家族が書いたのか、弟子を含めた親しい人が書いたのか?それともフアンの人が、一生懸命に書いた写本であるのかも知れない・・という、可能性の方が大きい・・と私は、思っています。 尤も、こんな事を言ってしまうと、学者先生達に怒られてしまいそうですがね。・・・でもこれは、作曲家としての、冷静な立場での見解です。
昨日 1:50
枕草子なども、広く写本されたようですものね。
手書きで楽譜・・・す、すごいですね!!!
10月21日 22:01
先程のHennry purcellのtriosonateのg mollの装飾音の有る無しの違いを、動画にしました。finaleでは、装飾音は、その速度まではcontrol出来ません。ですから、演奏譜として、実音で書き込まなければなりません。今回はそこまでの作業はしていません。あくまで、装飾音の有る場合と無い場合の違いだけです。
10月22日 18:36
上記に書いたbaroqueの音楽に、装飾を入れる方法論のlectureを実際の演奏にしたものです。つまり、課題はbaroqueの装飾法の勉強です。trill一つでも、accentを表す早いtrill、弱拍や抜きを表す遅いtrill、音を持続させるための長いtrillや、vibratoを表すtrill、crescendoを表す速度の変化するtrillや、decrescendoを表すtrillの速度を遅くしていくtrill等、数えれば限がありません。そう言った基本の装飾記号の勉強でもあります。 下のURLは、2015年10月の11日の千葉の秋の発表会でのbaroqueの演奏の光景で、梨紗さん、智子さんがperiod奏法に初挑戦している所です。何が難しいか?と言うと、絶対音感を持っている二人に取っての、418cycleのbaroque‐pitchでしょうかね??だって、書かれている音符よりも半音低い音が出て来るのですからね。昔I
Musiciの演奏を聞いた私の弟子が、Vivaldiの春が半音低いと言って、顔を歪めていました。慣れる迄には、それ相応に大変らしいですよ。 それに古典調律のmeantoneの調律では、A♭の音がWolf-ton
になるので、その音を純正調でハモらせるためには、微妙に音のpitchをずらしながら取らなければなりません。violinにフレットが付いていないのはそれが理由なのです。正しい純正のpitchを和音毎に取って行くのは、とても難しい技術なのですよ。
https://www.youtube.com/watch?v=ki0_xW2WRjU
10月22日 23:51
コンサートの前日、ふとFace bookを開いてみると、芦塚先生のバロック音楽の解説がずら~り!!
ここまで詳しく書いてあるなら、コンサートで配ったらいいのでは?と、急遽この冊子を作りました。
Face bookからあえてそのままコピーしましたので、話が前後したり、誤字があったり、詳しすぎたり!!??など、読みにくい点があるかもしれませんが、どうかご容赦ください。(芦塚音楽研究所 斉藤純子)
芦塚先生のbaroque‐concertへの解説 Facebookより
「まえがき」
「バロック音楽とペリオード奏法と言っても、分からないのではないの?」と言われて、一般的にはどの程度理解されているのかを、ネットで調べようと、その事について書かれているblog等々を探してみました。
結構、詳しく炎上しているblogを幾つか見つけて、その中でも、専門家である演奏家がperiod奏法や古楽に対して書いているblogを見つけて、読んで見たのですが、余りの内容に「う~ん??」という感じで、困ってしまいまって、試しに、生徒達にも、mailに添付して読ませて見ました。
生徒達も呆れていたのですが、「音楽の専門家でもその程度の知識なので、その程度を前提にして・・」と、生徒達に解説文を書かせようとしたのですが、それはやはり、時間がないので、timelimitの関係で無理と言う事で、私が生徒の代わりに曲の解説をしようかな??と思って、先生達や生徒達に「コンサートの会場で一つ一つの解説をしながら演奏会をしようか?」と言ったのですが、先生達から、「解説だけで、演奏会が終わってしまうよ!」と言われてしまって、それではどうしようもないので、Facebookで説明をする事にしました。
子供達が、自分の演奏する曲を自分自身で解説する事は、クリスマス会や夏休みのおさらい会で、練習をさせてはいるのですが、やはり、外の演奏会では、pressureが酷いのと、曲の下調べ等の時間のゆとり、曲を仕上げるだけで、今の所目一杯なので、今回、演奏する生徒自身で説明をする事は、無理なようなので、今回は、私が代わりに、曲の紹介をする事になりました。
baroque-音楽も、普通の演奏会で、現代風の演奏として・・ならば、何の問題もないのですが、periodとしての演奏とするのならば‥・という事で、専門家であるはずの演奏家の人のblogから、間違えた解釈や、取り違え、無理解等々を、ピックアップして、ざっと、箇条書きにして見ました。その演奏家の人が、baroqueの演奏に対して、批判をしていた所を中心にして書き出しました。
それが以下の丸付き数字です。
① バロックとperiodと古楽の違いと意味について、
② 4人で演奏するのに、なんでトリオ(3)・ソナタなの??
ついでに、通奏低音(basso continuo)とか数字付きバス (bezifferten Baß)とは何??
③ baroqueの奏法の特徴で、ビブラートをしないのは、どうして??
④ スコルダトーゥラについて・・
⑤ baroque時代に 作られたのにモダン楽器で現代でに作られたのにバロック楽器・・・
baroqueの楽器とmodernの楽器は何が違うの??
⑥ pitchの色々
⑦ Cembaloとはどんな楽器?Pianoとはどうちがうのか?
⑧ programにRealisationとornamentと書いてありましたが、それぞれどういう意味ですか??
⑨ celloのエンドピン
⑩ baroqueのviolaについては
⑪ Canon、chaconne foliaのthemaと、rhythmに付いて、
⑫ Ferdinand Davidのchaconneについて
⑬ baroque時代や古典派の時代のorchestraや室内楽の並び方
blogを取りまとめると、こういった事でしょうかね??
その一つ一つに付いて、私なりの解説を加えて行きます。
「以下、本文です。」
「baroque-concertへの解説No.1」
① バロックとperiodと古楽の違いと意味について、
⑤ baroque時代に 作られたのにモダン楽器で現代でに作られたのにバロック楽器・・・
baroqueの楽器とmodernの楽器は何が違うの??
⑦ Cembaloとはどんな楽器?Pianoとはどうちがうのか?
「① バロックとperiodと古楽の違いと意味について、」
砕けた表現で言うと、modernの解釈は大河ドラマのように、時代区分を現代的に解釈し直して、分かり易くしたのが現代のバロックの演奏で、丁度、能や歌舞伎を見るように古典を古典芸能として見るという事がperiodである・・と言う事が出来るでしょうね。
その過程で、江戸の町の庶民の家に竃が合って、畳の上で白いごはんを食べて生活をしている。という風な、現代の生活に置き換えるという歪曲をしています。
たまに、NHKの時代劇等で、当時の生活を時代考証で再現すると、逆に違和感を感じてしまいますよね。
「え~っ??当時の庶民の生活って、こんなだったの??」ってネ。
今の人達にとっての、ノスタルジーの戦後の昭和の時代も、私にとっての「夕陽が丘」の時代は、米のご飯が食べられない事もあって、ご飯茶碗に、昔の今は食べる人もいないかぼちゃが1/4切れ入っていた事もあったのだけど・・って、話をしていたら、生徒が「私、かぼちゃ大好き!」だってさ~!!
当時のかぼちゃ、どっかで作っていないかな??食べさせて味を見させてあげたいね??アハッ!大根だって、青首は無かったし、トマトも桃太郎は無かったのだよね。
「バロック(baroque)とペリオード(period)について」
先ず、①ですが、バロックという時代は、ご存知のように、1600年から1750年に掛けての時代で、50年単位に前期バロック、中期、後期と分類されます。今回演奏する曲の中で、一番古い曲はBiberのRosaryのSonateですが、それでも、baroqueの中期になります。教室で取り上げる作曲家で前期baroqueの作曲家は殆どいません。寧ろ、Renaissanceの様式に近いからです。baroqueというと、中期からが一般的になります。
次に、ペリオードの意味ですが、一般的にはピリオードと言われている事が多いのですが、ピリオードは英語で、ペリオーデ(periode)はドイツ語になります。
別にピリオードとは言っても、終末の音楽という意味でも、もう終わった音楽という意味でもなく、ペリオードの本来の意味は、期間や時代区分を指す言葉なのです。
period(ペリオード)に奏法が付いて、baroqueや古典の時代の演奏法や演奏様式の意味になり、period-Instrumentsで当時の楽器、(勿論、当時の楽器を修理演奏出来るようにした物から、復刻楽器までを含めて)period
-instrumentsと言います。
「古楽について」
ペリオード奏法とは当時の演奏様式と奏法(弦楽器の奏法)と作曲様式を言います。
多くの演奏家のblogの中では、バロック楽器や、奏法を一把一絡げに、「古楽」として総称していますが、それはチョッと無茶苦茶で、乱暴です。まあ、「学術論文ではない!」
私達が分類する場合には、「古楽」というと、Renaissance(ルネサンス)の時代様式を指す事が多いので、古楽という言い方はしません。
Renaissance以前の教会音楽のような音楽は、もう素直に、中世の音楽と言っています。ギリシャ時代の音楽も大分解明されて来ていて、幾つかの曲は、再現されて来ているのですよ。
しかし、矛盾しているのは、バロック時代に演奏された楽器でも、Renaissanceから演奏されて来た楽器もあるので、そこは紛らわしいです。
バロック時代に用いられたviola da gambaのような通奏低音を受け持つガンバ属の楽器は、本来はRenaissance時代の楽器なので、頗る、時代区分が曖昧なのだから、楽器の分類も、その程度に曖昧なのは、仕方がないのかもしれません。
写真は発表会での、牧野先生のgambaの演奏です。
勿論、芦塚先生が、発作を起こして、突然、バイクで買いに行ってきたviola da gambaです。
「⑤ baroque時代に 作られたのにモダン楽器で現代でに作られたのにバロック楽器・・・」
「violinの誕生」
弦楽器のルーツは古すぎてよく分かっていないのですが、violinに関してのみならば、話は明確です。
violinが誕生したのは、1570代にザロ(Gasparo da Salò)が作ったviolinが歴史上最初のviolinと言われていますが、同時期にシンクロニシティで似たような楽器が色々な工房で作られたとされるので、ザロがviolinの最初の作者であると言う事に付いては、疑問を挟む人もいますが、ザロの作品は現存しています。
ザロの弟子がストラディバリウスの先生でもあり、沢山の銘器の製作者であるアマティーで、violinという楽器の頂点は既にその時代に出来上がっています。
StradivariやAmati以降、多くの弦楽器の製作者が挑戦していますが、それ以上の楽器が作られた事はありません。
私が、未だ音楽大学の学生であった頃(昔々)には、未だAmatiの楽器で演奏する名violinistもいて、私もAmatiの音を聴いた事があります。とても柔らかで美しい響きなので、Amatiの愛好者の方がStradivariのファンよりも多かったのではないのかな・・とも思っています。
技巧的、性能的には、確かにStradivariの方が優れてはいたのですがね。
今はもう、Amatiの音は聴く事は出来ません。もう、寿命を迎えたので・・。
もうすぐにStradivariも寿命になります。
「バロック・ヴァイオリ(baroque-violin)とモダン・ヴァイオリン(modern-violin」
弦楽器奏者であれば、垂涎の逸品である(27億円の高値の付いた事もある)Stradivariですが、バロック時代に作られた楽器でありますが、楽器を改造して現代のviolinとして使用されているので、分類はmodern-violinになります。
バロック・ヴァイオリンとしてバロック仕様で作られたのであれば、現代に作られたとしても、それはバロック・ヴァイオリンであり古楽器になります。アハッ!
バロック時代に作られた楽器を、モダン仕様に改造して使用しているので、バロック時代に作られた楽器であっても、modern-violinになるのです。
ですから、現代の弦楽器の工房で作られたものであっても、バロックの仕様で作ればバロック楽器になります。それを復刻楽器と言います。
「⑦ Cembaloとはどんな楽器?Pianoとはどうちがうのか?」
「以下同様にチェンバロ(Cembalo)にも」
同様に、Cembaloにも、modern-CembaloとHistorische-Cembaloというのがあります。
Historische-Cembaloというのは、baroque時代の当時の楽器を修理して使用できるようにした物や、当時の設計図や実際の古い楽器から寸法を取って、復刻したものを言います。
このコンサートに持って来ている チェンバロは所謂、Historischeの楽器、つまり、復刻楽器で、andrea lucas というCembaloのStradivariのようなCembalo製作者の楽器(銘器)の復刻modelになります。
但し、完全な復刻ではなく、 幾分の教室の使用条件に見合うように、変更をしています。
Lucas-modelでは、鍵盤の色が現代と同じように白鍵は白色で、黒鍵は黒色なのですが、一般的には、Cembaloは白黒が逆さまとされる事が多いので、いちいち、演奏会の度に、その事について、説明するのが面倒くさいので、一般的に合わせて、黒鍵と白鍵を逆にしてあります。
1段鍵盤で、通常は8feetとoctave上の4feetなのですが、orchestraのbackで演奏する事が多いので、音量を増やす意味で、8feet、8feetにしています。
後は、バロック時代には、当然必用の無かったスライド鍵盤を使用して、modernのA=443のpitchと、baroqueのA=418cycleに対応させています。
Cembaloが廃れた一番の理由は音量ですが、その音量の弱点をなくすために、20世紀になって作られたmodern-Cembaloでは、弦を引っ掻くのにスプリングを使用して強い音を出しました。
音量は強くなって、ホールでも演奏出来るようにはなったのですが、その分音が鋭くなって、バロック特有の響きの優しさが出なくなったので、今は評判が悪いようで、音量は劣っていたとしても、復刻の楽器の方が主流になっています。
教室にはHistorischeの復刻モデルの2段のグジョン-モデル( Goujon-model)の大型Cembaloと、1段の ルーカス-モデル(Lucas
-model)のCembaloと、スピネットが2台ありますが、大型のCembaloの搬送には、専門の業者に委託しなければならないので、今回は自分達で搬送が可能な1段のCembaloで演奏します。
「現代のピアノと古楽器であるフォルテ・ピアノ」
ちなみに、CembaloとPianoの一番の違いは、弦を爪で引っ掻いて音を出すか、ハンマーで叩いて音を出すかの違いです。
同じPianoでも、鍵盤にハンマーが付いていてDirectに音を出す楽器をsingle actionのPianoと言い、鍵盤から、一度投石機の原理でハンマーを打ち出す仕組みの機能を持ったPianoをdouble
actionのPianoと言います。
投石機とか投擲機のように、石を細い皮の紐で縛ってクルクルと回して投げると、人が投げる何倍もの距離を投げる事が出来て、遠くの敵を倒す事が出来ますが、しかし、自分の手で投げるよりも、獲物に当たる確立は不正確になります。
ネットで探した投擲器の中で一番分かりやすい絵を掲載しておきます。
ネットの絵なので、持ち主が不明なので、認証が出来ません。
クレームが来たら削除します。
single actionのハンマーでは、微妙な指先のtouchを正確に弦に伝える事が出来ますが、音量が、どうしても劣ってしまいます。
音量を強く出すためには、指のちからを増幅する投擲機のようなものが必要になります。
それが、double actionのハンマーです。
Pianoのactionの部分を調律の時に、調律師の人に見せて貰うと、鍵盤からの部分と、投擲機で鍵盤の力を増幅する部分を見せて貰う事が出来ますよ。
という事で、single actionのPianoをforte-pianoと言い、古楽器のPianoになります。
double actionのPianoが現代の私達が普段弾いているPianoになります。
forte-pianoを復刻する上で、一番難しいのは、forte-pianoの音の再現でしょう。
single actionでも、ハンマーの部分の材質が、皮やフェルトかで、音の質が全く変わってしまいます。
一般的にはHaydn時代のforte-pianoのハンマーの先の部分は、細くカバーも少ないので、音質は硬質でCembaloの音に近いようです。
Mozartの時代になると、ハンマーの大きさも少し大きくなって、かぶせてあるフェルトも少し厚くなって来て、丁度、CembaloとPianoの中間的な音になります。
ChopinのPleyelPianoは、音色だけを取って言うのならば(音量を与しないのならば)、現代のPianoの音と比べて殆ど違いがありません。(というよりは、数倍優れていると思います。)
フランスのエラールピアノは、double actionではありますが、ChopinのPleyelとよく似た音がします。
パリの友人の家に遊びに行っている時に、hungaryからPianoの勉強に来ている人が自分のエラールピアノを故郷から持って来ていて、弾かせて貰いましたが、本当にChopinのような素晴らしい、美しい音がしました。
ChopinのPleyelのPianoは、Chopinの家を訪れた人は誰でも弾く事が出来て、その演奏はYou Tubeでupされています。proのpianistよりもamateurの人の方が、上手にPleyelの特性を引き出したりしていますので、面白いです。
ChopinのPleyelPianoで探して見てください。
Pianoを最初に作ったのは1700年頃にクリストフォリが制作した、とされています。
その次に有名なのは、オルガンの制作で有名なオルガンのStradivariとも称されるジルバーマンの制作のPianoですが、それを試演に行ったBachが酷評した事でも知られています。
昔々、ジルバーマンのPianoを修理して、その音を再現したのを聴く機会があったのですが、何と、その後のforte-pianoの音よりも、現代のPianoの音に近かったので、驚いてしまいました。演奏はBachの音楽の捧げ物を弾いていたようなのですが・・ヒョッとしたら、今でもYou
Tubeで聴けるのではないかな??
「baroque-concertへの解説No.2」
② 4人で演奏するのに、なんでトリオ(3)・ソナタなの??
ついでに、通奏低音(basso
continuo)とか数字付きバス(bezifferten
Baß)とは何??
⑧ programにRealisationとornamentと書いてありましたが、それぞれどういう意味ですか??
「本文」
「② 4人で演奏するのに、なんでトリオ(3)・ソナタなの??
ついでに、通奏低音(basso continuo)とか数字付きバス (bezifferten Baß)とは何??」
ピアノトリオというと、ピアノと他の楽器2台で演奏する事を言うのですが、トリオ・ソナタというと、同族楽器と通奏低音の楽器とチェンバロ等が入ります。分かり易くviolinで言うと、violin-solo1,solo-2とcello(若しくはgamba)にチェンバロが入って4人となります。この説明は「但し、」だらけなのですが、チェンバロの人は本当は、celloの楽譜を見て、celloの楽譜に書いてある数字を見て右手を即興で演奏します。
ですから、楽譜上はviolin1とviolin2とcelloのトリオになるのです。
「⑧ programにRealisationとornamentと書いてありましたが、それぞれどういう意味ですか??」
これはbaroque時代の総ての楽譜について言える事で、現代の譜面では便宜上一応右手の数字を音符に直した楽譜が書いてありますが、この音符の上(下)に書かれた数字の事をドイツ語で、
bezifferten (数字の振られた)Baß(低音)と言います。
jazzのコードと同じだと思えば良いのですが、低音の左手の動きは決まっているし、和音の線的な動きも、和声学である程度決まっているので、即興と言うよりも、作曲家の速記法だと思った方が良いでしょうね。
この音符に付けられた数字を、実際の和音に直す事をRealisationと言います。
baroque時代の楽譜では、音符をこんにちのようにそのまま弾くことはありません。
corelliや多くの著名な作曲家達が、自分の書いた楽譜を、どのように演奏したら良いのかの模範解答を書いています。
右側の譜例は、下の段が実際に楽譜上に書かれる音符で、上の段の音符は実際に演奏する楽譜であるという意味です。
それをornament(装飾)譜と言います。
Christmasに飾り付ける装飾のornamentと同じ「飾り」という意味です。これも、記譜上の楽譜はあくまで骨格だけで、肉付けは演奏者が自分でやらなければなりません。
そういった事が出来て、初めてbaroqueの奏者という事が出来ます。
日本の音楽大学でやっているように、baroqueの曲を楽譜通りに演奏するだけでは、baroqueの演奏とは言えないのでね??
「baroque-concertへの解説No.3」
「③ baroqueの奏法の特徴で、ビブラートをしないのは、どうして??」
音楽家達の一般的なbaroque時代の認識には、baroque時代の弦楽器の演奏家達は、vibratoをしなかった・・、酷い極論の場合には、baroque時代の人達はvibratoが出来無かった・・というのもあります。それは大変な誤解です。
確かに、baroqueの音楽家達が、現代の弦楽器奏者のように、常にvibratoを付けて演奏するような事はしませんでした。
baroqueの弦楽器奏者達が、vibratoを余り用いなかった理由は、現代の音楽と違って、音楽を純正調で演奏したからです。
baroqueや古典派の人達は、和音の純正な3度と5度の響きをとても大切にしたからです。
今の音楽家達は純正で演奏する事は出来ません。
寧ろ、amateurの同族楽器のensembleの人達が純正を取る事が出来ます。
ブラスやグリークラブのような同族の響きの方が純正が取りやすく、vibratoを掛けると純正の美しい響きはvibratoのビブレーション(振動振幅)で、消えてしまいます。
私が留学中に食堂でよく論争をしていたかの有名なカール・リヒター教授もBachの演奏で優れた業績のあるミュンヘナー・カンマー・コアーでは、proの声楽家は一切雇わないので、その理由をリヒター教授に尋ねた所、「だってproの声楽家達はvibratoを無しに歌う事は出来ないだろう??」「vibratoは純正の響きを駄目にするからね!?」と言っていました。
しかし、勿論、歌でも、soliste達はproが歌います。
しかし、proのsoliste達の発声法は、音楽大学で学ぶ発声とは根本的に違うcantataの特別な発声法で歌います。
これは、全く別の世界のお話になります。
baroqueの歌を歌う歌手達の演奏は、You Tubeで簡単に聴く事が出来ます。
今日のコンサートでも、冒頭のPachelbelのcanonでは、最初の入りの部分だけをvibrato無しで、純正の3度で演奏します。
勿論、そのまま、最後まで、baroqueのperiod奏法で演奏する事も出来ますが、しかし今日は、後は、皆様の聞き慣れた曲なので、違和感をあまり持たせないように、一般的な現代の演奏法で演奏する事にします。
また、baroque時代には、曲のmelodieに必用なアクセント(accent)や、そのmelodieの頂点を表すような際立たせのvibrato等は、vibratoではなく、もっと表現の強いトリロやモルデントで表します。
それは、こんにちのPianoやviolinのように、音量があって、表現が強く出せる分けではなかったからでス。
つまり、音量が少ない場合には、表現は強めにしないと、伝わらないからです。
という事で、vibratoは、装飾音の中の一つの表現型に過ぎないし、それよりも装飾音の方がより豊かに音楽を表現する事が出来るからです。
一般的にはよく知られてはいないのですが、装飾音で、crescendoやdecrescendoも表す事が出来ます。
「チェンバロやオルガンのような楽器では、音の強弱は出来ない」とされていますが、それを装飾音で表現する事が出来るのです。
チョッと、注意深く、ヨーロッパの名演奏家のCembaloやorgelの演奏を聴くと、そういった装飾音でのarticulationの表現を見る事(失礼、聴く事)が出来ます。
しかし、日本で学んでいるような画一的で、感覚的な装飾音の入れ方では、その音楽表現をする事は、出来ませんがね??
教室のorchestraの子供達は、Vivaldi等のbaroqueの演奏と、DittersdorfやStamitz等の古典派の作曲家達のbowの弾き方、HaydnやMozart等の古典派の後期の作曲家達のbowを、弾き分ける事を学んでいます。
それは弦楽器のbow(弓)が改良されて、進化して来たbow(弓)の構造上の歴史と、弓の使い方が整合するからです。
楽器の構造上の進歩と、それに付随したTechnikの発達の歴史を学べば、自ずから、baroqueと古典派の音楽の演奏表現の違いを学ぶ事が出来ます。
こういった事が小学生でも出来るのは、弓の持ち方、楽器の構え方を、弦楽器の発達のルーツに從って、指導しているからです。
芦塚音楽教室の子供達が演奏出来る事が、日本の音楽家達に出来るとは、限らないのです。
「baroque-concertへの解説No.4」
④ スコルダトーゥラについて・・
⑪ Canon、chaconne foliaのthemaと、rhythmに付いて、
⑬ Greensleeves
to a ground in C Dorischで、Greensleevesは良いけれど、groundとDorischってなあに??
⑬ baroque時代や古典派の時代のorchestraや室内楽の並び方
「④ スコルダトーゥラについて・・」
調弦を変える事をスコルダトゥーラ(scordatura)と言います。
教室でも、上級生がCanonを演奏する時には、Kontrabassの調弦は、下の弦からE⇒A⇒D⇒Gと4度に調弦しますが、Canonの低弦の音はD⇒A⇒H⇒F#⇒G⇒D⇒G⇒Aと、KontrabassのEよりも低いDの音が出て来るので、一番下のEの音をDに下げて調弦します。
これはギターでもよくやる調弦なのですが、これも立派なscordaturaです。
violinは勿論、下の弦からG⇒D⇒A⇒Eと調弦しますが、BiberのRosary Sonateでは、すべての曲が別の調弦をします。
楽譜を見て演奏するのは不可能です。
今回演奏するRosarysonate 9番は下の弦からC⇒E⇒A⇒Eと調弦します。
楽譜を見て、実際の音を連想するのは不可能でしょうね??
「⑪ Canon、chaconne foliaのthemaと、rhythmに付いて」
写真2はCanonの楽譜のpart譜ですが、celloとviolinの総てのpartを私が2Pageに纏めたものです。
celloは、D⇒A⇒H⇒F#⇒G⇒D⇒G⇒Aの8個の音を28回繰り返します。violinはそれぞれ✹で順番に弾き始めます。
終わりは当然、✹で順番に終われば良いのです。
こういった決まり決まった音の上にmelodieを作る事を、cantus firmus(定旋律)in Baß(バス)と言います。
シャコンヌやフォリアやパッサカリアにはそれぞれに定められたBaßの定旋律上に、figuration(音型)を繰り返して行きます。
canonは日本語では遁走曲と訳します。
意味は追っかけっ子という意味でしょうかね??
遁走する・・とは、逃げるという意味ですからネ。
「⑬ baroque時代や古典派の時代のorchestraや室内楽の並び方」
現代のorchestraの弦楽器の並び方は、舞台に向かって、左側から、1stviolin、2ndviolin、viola、celloと並ぶのが一般的です。例外的にviolaが弱いので、celloとviolaを入れ替える場合があります。
しかし、二次大戦の直前までは、寧ろ、Haydn並びと称される、Haydnの考案した並び方が一般的でした。でも、Haydn自身は、演奏の会場のlayoutで、その都度、orchestraの演奏効果が、最大に出るような並び方を、その都度、会場に合わせて、する事が多かったので、「Haydn並び」と決めつけられるのは、Haydn先生にとっては、甚だ不本意だったかもしれません。
いずれにしても、baroque時代の作曲法は、1stviolinと2ndviolinが対話をするように作曲される事が一般的だったので、最も効果的に対話の感じが出せるように、ステレオ型に並べて、対話の感じを出しました。
だから、baroque並びや、Haydn並びの場合には、1stと、2ndが相対するように、1st-violin、cello、viola、2nd-violinと並ぶ事が一般的でした。このviolaとcelloを入れ替えると、所謂、München並び(型)と呼ばれる並び方になります。
Pachelbelのcanonの場合には、violinが1st、2nd、3rdになるので、München並びの応用で、左側から、1stviolin、3rdviolin、cello、2ndviolinと並ぶ事で、音楽の立体性を出すようにしています。しかし、本当は、この並び方は、聞き合う相手が遠くになるので、音がズレやすいので、決して楽な簡単な並び方ではありませんね。一般的なオケ並びの、1stviolin、2ndviolin、3rdviolin、celloと並ぶ方が、音が隣合っているので、演奏する側に取っては、合わせがとても楽なのですがね??
教室の発表会で、Vivaldiやbaroqueのorchestraのsoloとbasso continuoのcelloとCembaloをorchestraの前に出して演奏させるのは、私の考案なので、歴史的な時代考証はありません。教室独自の並び方です。
という事で、triosonateの並び方も、1stviolin、cello、2ndviolinと、ステレオ的に並びます。
「⑬ Greensleeves
to a ground in C Dorischで、Greensleevesは良いけれど、groundとDorischってなあに??」
Greensleeves to a ground in C Dorischも同じで、グラウンド(ground)が定旋律です。
その定められた定旋律上にGreensleevesのmelodieをドリア調で演奏して行きます。
写真4は有名なBachのMenuet(メヌエット)ト短調ですが、楽譜では♭が一つしか付いていません。
つまり、ヘ長調のドリア調で作曲された・・という意味なのです。
ネットで見つけた教会旋法の一覧表を載せて起きますが、一覧表は「ハ調」(ハ長調ではありません。基準の音がハの音という意味です。)を基準にした場合なので、先程のBachのMenuetの曲は「ヘ調」を基準にしたドリア調が、現代のト短調になる・・という事です。
「baroque-concertへの解説No.5」
⑥ pitchの色々
「古典調律とbaroquepitchのお話」
「古典調律のお話」
現代では調は平均律という調律法しかありませんが、baroque時代には、無数の調律法があります。
今回のコンサートでは、そのなかのKirnbergerの調律法という調律法で調律して、演奏する事にします。
baroque時代の調律法は重要な調律法だけでも、Werckmeisterの調律法、Kirnbergerの調律法、Vallottiの調律法、Youngの調律法、最も好まれているmeantoneの調律法等があります。
また、meantoneはA#、E♭等の種類に分かれ、YoungもWerckmeisterもそれぞれに1と2があります。
それぞれの調律法で、それぞれに特性が違うので、使う曲の調性や転調の具合でベストな調律法を選ばなければなりません。
Mozartはmeantoneの調律法を好んだとされます。
また、こんにちでは「Bachの平均律」とされている楽譜ですが、こんにちでは、あたかもBachが平均律を作ったと言われていますが、実際には、Bachは平均律を使用したことはありません。
それは時代錯誤です。
Wohltemperirteというドイツ語の「wohl」を平均律と訳したのでしょうが、wohlには、平均律という意味はなく、「wohl(完全に)temperirte(調律した)」Clavierという意味で、それぞれの曲を、一番あった調律法で調律した・・という意味を書いています。
BachはWerckmeisterの調律を好んでいたそうですが、それはそれとして、適材適所に色々な調律で調律して演奏した・・と思います。
調によって、どの調律法が適しているのかは、それぞれの曲で、違うので・・。
ちなみに、今回使用するKirnbergerの調律法は、Bachのお弟子さんの調律法です。
Bachの時代には平均律は未だ確立してなくって、それに近い調律法があっただけです。
Bachが、平均律を推奨していたという事実はありません。
それも私達が平均律を使用しているので、それが絶対であると思う近現代人の手前味噌な勘違いです。
教室のorchestraの練習では、harmonytrainerというKeyboardを使用して指導をしていますが、うっかりとKeyboardの操作を間違えて、「平均律の和音の音」を出してしまうと、子供達からブーイングが出てしまいます。顰蹙ものなのですよ。
一般的に、平均律でしか和音を聴いた事のない人達には、理解出来ない事かも知れませんが、一度、純正調の響きを体験すると、平均律の和音の響きは我慢の出来ない程、汚い響きがします。
Mozartのピアノソナタでも、ミーントーン(meantone)で調律された演奏を聴いて見ると、「えっ??Mozartのピアノの音って、こんなに美しかったの??」と、カルチャーショックを受けてしまうのですよ。
近現代のorchestraのように、色々な調の楽器が集まって来ると、一番難しいのは、ド(C)の音一個を揃える事になってしまいます。クラリネットは変ロ長調で、ホルンはヘ長調で、etc、etc、でたった一つのドの音でもそれぞれの楽器の調の中のドの音になる音を弾かなければなりません。純正調処の話ではないのですよ。平均律の音を出すのが精いっぱいなのです。
「baroqueのピッチのお話」
baroqueを嫌う人でピッチが低いので・・と、言う人がいましたが、これは時代的なものだし、楽器の弦の張りの問題なので、如何せん・・どうしようもない事だ、と思います。Beethovenの第9でも、Beethoven時代の演奏を、今聴くと多分ハ長調に聴こえるかもしれませんよね。だから、pitchの問題を云々する人達は、periodの演奏は聴かない方が良いでしょうネ。
今回のコンサートでは、3種類のpitchを使用します。
生徒達が演奏するCanonのピッチは、標準の演奏会高度の443cycleでの演奏です。
同様に、私の作品である、「Greensleeves to a ground in C Dorisch」の曲も、チェンバロの伴奏ですが、標準pitchの443cycleです。無伴奏のcello組曲のcelloの演奏は、標準pitchです。
同じ、Bachの無伴奏組曲のviola-versionにtransposeした曲なのですが、梨紗さんのbaroque-violaだけは、ヨーロッパのrecorderの標準pitchである436cycleで演奏します。
それ以外の先生達のbaroqueのperiod-Instrumentsでの演奏では、古式豊かに、スライド鍵盤によるピッチ(つまりG#をAに見立てて)で、A=418cycleで演奏します。
実際には、その他にも、もっと低いベルサイユpitchと呼ばれるpitch等や、色々なpitchがありますが基本的には、今はその436cycleと418cycleのpitchが標準だと思わるます。
教室の生徒さん達が、baroqueの音楽をbaroqueのpitchで演奏しないのは、教室の生徒達が全員絶対音感を持っているので、baroqueのpitchで演奏をすると、音符が読めなくなってしまうからです。
絶対音感がある人達が、baroqueの音楽を勉強する事は、baroqueのpitchと言う、大きなハードルがあります。
それは、baroque音楽を勉強する上では、絶対に避けられない問題になります。
音楽大学に進学するぐらいでは、そういった問題は生じないので、音楽に進む上での問題は全く無いのですが、もし、baroque音楽で
proの演奏家を目指すのならば、そのpitchの問題は訓練して、何とかクリヤーしなければなりません。
作曲家は、絶対音感を持っていたとしても、作曲のために、和声的な音楽進行の理解を即すために、移動ドの譜読みも出来なければならないのです。
Münchenの音楽大学に在学して居た頃には、オルガニストの学生の人が、絶対音の固定ドで歌う時には、ドイツ式で読んで、和声の時には、イタリア式のドレミ唱法で歌っていて、私的には、すっかり感心してしまいました。
そういった、使い分けも、modernのpitchとbaroqueのpitchでは、出来ませんから、そういったpitchを下げる勉強をするのが、無理な人達は、baroqueの演奏には近づかない事が懸命でしょうね。
歴史的な時代考証の問題なので、baroque音楽をmodern-pitchで演奏しても、period奏法にはならないので、そこは、個人でどうにかなる問題ではありませんのでね。
参考までに:baroque時代のpitchや古典調律に関しては、この私のFacebookの10月25日のコメントと、9月10日のコメントにかなり詳しく書いているので、そちらの方を参考にしてください。
ドツボにはまると、どこまでも詳しくなってしまうので、適当に逃げながらの、解説なので・・・。
「baroque-concertへの解説No.6」
⑨ celloのエンドピン
⑫ Ferdinand
Davidのchaconneについて
⑨番のcelloのエンドピンですが、19世紀の後半迄は、エンドピンは発明されていませんでした。
・・と言うか、viola da gambaとcelloの境目すら、曖昧で、5弦のcelloが主流だった・・という人もいるぐらいなので、時代考証的には、エンドピン処の話ではないのですよ。
だから、Beethovenは勿論ですが、Brahmsが生きて居た頃には、Brahmsのsymphonieを演奏する時でも、チェリスト達は全員エンドピンは付けていなかったのですよ。
それ以上に、violin属の肩当て、顎当てや、cello属のエンドピンは、全部、楽器の音の響きを阻害します。
それで、昔の演奏家達には忌み嫌われていたのですよ。
violinやcelloがmodern仕様になって、指板が長くなって弦の張りも強くなったので、響板の表板の裏側に弦の強い張りの力に耐えるために力木を入れて、violinが折れるのを防いでいます。
表板の裏側に力木を入れることによって、弦の強い張りの力に耐えられるようになったのですが、自然な響鳴は失なわれることになってしまいました。
その強い弦の振動を、駒から表板に伝えて、中の魂柱を通じて裏板に振動を伝えます。
つまり、baroqueとの一番の違いは、弦楽器の響鳴(共鳴ではありません。)を強制的に振動させるようになったので、あまり、violin、楽器そのものの、響鳴はそれ程大切ではなくなったのです。
語弊がないように、確認しておきますが、響鳴が必用でなくなったのではなく、baroque時代程の響鳴は必用はなくなった・・という意味です。
baroqueの復刻のCembaloも、modern-Cembaloに比べて、響鳴が大きいのです。
その響鳴で音を伝えているのでね。
こんにちでも、日本でのviolinの大御所と言われている**先生は「音が悪くなるから(響かなくなるから)・・」、って言って、生徒達には、肩当ては絶対に使わせなかったしね。
だから、当然、**先生の門下生達は、今でも肩当ては使わないですよね。
でも私的に言うのなら、それなら、顎当ても使わなければ、もっと良い音(よく響く)がするのにね・・??
ジプシーの人達は、violinを首に挟んで弾くよりも、手に持って、お客様の目の前に楽器を見せて、演奏します。
だから、肩当ても顎当ても、普通に使用していますが、必要性は非常に少ない・・つまり、なくても弾けるのです。
無ければ弾けない・・と、無くても弾ける・・では、基本的に違いますからね。※)
地方に行くと、方言に、江戸言葉が残っていて、感激しますが、ヨーロッパに行くと、地方の田舎のdanceの曲に、baroque時代のrhythmが残っていたり、民族音楽にbaroqueの様式の演奏法が残っていたりして、時折感激する事があります。
※)てな事を書くと、私が肩当てや顎当てを否定しているように思われる事がありますが、私は肩当ても、顎当ても否定した事はありません。教室では、幾種類もの肩当てを準備していて、その生徒に合った肩当てが見つかるように配慮をしています。(自分にはこれが合っているから・・と、総ての生徒に押し付ける事はしません。総ての生徒達はそれぞれに体型が違うのですから、合う肩当てや顎当てもちがうのですよ。)
⑫のFerdinand
Davidのchaconneについては、10月の10日の投稿でかなり詳しく書いています。
ピアノ・ヴァージョンのVitaliのchaconneは底本をDavid版を使用しているので、Charier版等々も基本はDavid版と同じです。
所謂、VitaliのchaconneのUrtext版と言われるBärenreiter版 やRicordi版も、原本の間違いの多さに、ちゃんとした楽譜が作れなかったようです。
Facebookの10日のコメントにも書いたように、facsimile版だったとしても、写本だと思います。
作曲家本人の直筆ならば、絶対にしない間違いが多すぎるからです。
それよりも、chaconneも、la foliaも、舞曲なので、その舞曲の特徴を表すrhythmを使用しなければなりません。しかし、一般的に知られている大元のDavid版も、chaconneをarrangeする時には、舞曲としてはarrangeはしていません。
その影響かは知りませんが、Barenreiter版もRicordi版も、chaconneのrhythmを使用していないので、今回、私のarrangeでは、そのrhythmを全面に押し出して、古式豊かに、chaconneらしくarrangeをしたつもりです。
それにしても、Vitaliのchaconneとcorelliのla foliaは、昨日の20日の日曜日迄でも、訂正改正をし続けているのだけどね??
今、第何稿??
もう、誰も分からんよ!!
100稿は軽く越したかな??
1日に、3回も4回も改訂する事が普通なのでね。
右側の写真は、ライプツィヒの図書館に所蔵されているVitaliの原本のfacsimileです。
しかし、Vitaliのchaconneはこの版しか残っていないので、総てのchaconneの版はこの譜面を底本にしているのですが、これはどう見ても、写本であって、作曲家の直筆譜ではありません。
ですから、この曲を底本にするには、クリティック(kritik=批評修正)が必用になります。
写真2枚目は、ネットからdown loadしたviolinを真っ二つに切った写真です。
真ん中の棒が魂柱です。
魂柱は上下の板(表板と裏板)で挟んでいるだけで、接着されていないので、violinの演奏の時の振動で微妙に移動します。
良い音で弾くと、良い音の出る場所に魂柱が自分自身で移動します。
だから、楽器を鳴らせる人の楽器はよく鳴って、楽器を鳴らせない人の楽器は、音が出ないのです。
「怖!」
「baroque-concertへの解説No.7」
⑩ baroqueのviolaについては
baroqueのviolaは、viola自体が未成熟の時代だったので、violaの曲が非常に少なく、楽器もどの楽器の属の中に分類されるのか?が曖昧でした。
今でも、ドイツでは、violaの事を、ブラッチョ(Bratsche)と言いますが、それはビオラ・ダ・ブラッチョ(viola da braccio)の略で、日本語では「腕のビオラ」という意味になります。
つまり、baroque時代では、通奏低音等で、よくcelloの代わりに演奏されるヴィオラ・ダ・ガンバ(viola da gamba=脚のビオラ)の同族の楽器になります。
下の文章では、私が昔々所有していたコントラバス(Kontrabass)の仲間であるヴィオール属のヴィオラの話が出て来ますが、そういう風にbaroqueの時代では、未だどれがヴィオラのパート(part=この場合には、中声部を意味しますが・・)を演奏する楽器であるかは、曖昧で、そのために、楽器自体も残っている事自体が非常に珍しく、そういう事で、即、私の元にやって来た(買った)のですが、教室でorchestraーcurriculumの中で使用するには、教室が演奏する時のbaroqueの音楽は子供達の教育のために、baroque-pitchではなく、modern-pitchのままなので、baroque-violaは、baroque音楽を演奏する演奏のチャンスがないままに、ハイツのお蔵で、寝ていました。(私の自宅である江古田のハイツには、未だ日の目を見る事のない、そういったカンブリア紀に属するviolin達が多数、出番を待っています。)
Bachの無伴奏という曲は、学術的で発表会には向かないので、梨紗ちゃんが受験のために、Bachの無伴奏を勉強してから、音楽大学に入学後に、そのままBachの無伴奏の勉強を続けて行ったので、発表会でも、その組曲の中の1曲ぐらいは、発表会の幕間で演奏しても良いのかな??と言う事で、おさらい会や発表会の幕間でbaroqueのperiod奏法の勉強としての演奏を発表する事にしました。本格的に、Bachの無伴奏の勉強を始めたので、梨紗ちゃんに私の秘蔵っ子の本物のbaroque-violaを貸す事にしました。(本物‥・という意味は、復刻楽器ではなく、当時の楽器そのまま、・・という意味です。)
私は、昔々には、ヴィオール型(Kontrabassと同じで、背中が真っ平らな)baroque-viola(Renaissance-時代のviolaかもしれませんが)を持っていて、「ヴィオール属のviolaだ!」と言いながら、時々、演奏会で、violaの代わりに外でも弾いていたのですが、お金に困った時に、仕方なしに、売る目的で、ミュージックプラザに預けていたら、売れないままに、2,3年経った頃、いつの間にか失くなってしまいました。箱型のviolaなので、面白いけれど実際の演奏にはあまり向かないし、当時は先生達に未だbaroqueの奏法は教えていなかったので、私自身に、あまり、古楽器に対しての思い入れが無かったからです。
大変珍しい二度と手に入る事のないviola da braccio型かヴィオール属のviolaなのですが、もう既に寿命を迎えていて、演奏には向かない、どこかが壊れても、もう、修理不能なviolaという事で、私が、養老院代わりに、購入しました。
実際の演奏で使用する事は出来なかったので、たまに、orchestraで私がviolaを演奏する時に、面白半分に持って行って演奏するぐらいだったので、お金に困った時に、必用のない楽器という事で、一番最初に売り払おうと思ったのですがね。
今だったら、古楽器の演奏をやっているので、かなり楽器の価値は上がっています。
そういった意味では、楽器屋が、なくしてしまったことは、私としては、非常に残念なのですがね??
それにしても、私の所有するbaroqueのviolaは、演奏する機会がなかなか無いままに、ハイツの自宅で眠っていたので、ティールピースや指板等は、ミュージックプラザから買った時のままの状態で、baroque仕様の復刻はしていません。
今回のコンサートには復刻は、間に合わないので、次回のコンサート迄には、復刻して完全なbaroque仕様にして、お目見えしたいと思っています。復刻とは言っても、内部を弄るのではなく、指板の交換とティールピースと駒を変えるだけなのですがね。
内部はbaroque時代のままなので、寧ろ見た目の話なのですが・・ネ。
「梨紗さんが演奏している、写真の楽器は今回コンサートで演奏する私のモノホンの大変めずらしいviolaです。
本当はbaroque仕様に復刻してから写真を載せるべきなのでしょうが、・・Before-Afterも良いのかな??」