Mozart Pianoconcerto k.107 G Dur 

Mozartは生涯に27曲のPianoconcertoを作曲しました。

しかし、不思議な事に、その27曲のPianoconcertoの中には、このK.107 ト長調のPianoconcertoや、前回(13年の10月20日の千葉の発表会で)、ひかりちゃんが弾いた、kirchensonta Cも、そのMozartのPianoconcertoのseriesの中には入っていないのです。
上記の下線の文字をクリックすると、You Tubeの動画にlinkします。

(2013年10月20日千葉の秋のコンサート、Mozart kirchensonate C )



ですから、殆どの人達がこの曲を全く知らない・・・という非常にmaniacな、珍しい曲になるのです。

芦塚先生がこの曲を知ったキッカケは全くの偶然でした。
Münchenの街で、いつものように古楽譜屋さん(Münchenの楽譜屋さんは100年も前の古い楽譜と、新品の普通の楽譜を両方売っています。ヨーロッパの本屋さんは、新刊の本と一緒に、(勿論、置いてある場所は違いますが・・・)歴史があって、希少価値のある古書を沢山置いているのです。だから、そういう本屋で古書を漁るのは、宝の山に入ったようで、とても楽しいのだそうです。)で、いつものように、古書の楽譜を漁っていた時に、新品の楽譜のコーナーで、偶然見つけた楽譜を買い求めて日本に持ち帰って来たものだそうです。

勿論、その頃の芦塚先生は、「音楽教室を開く」という事は、全く当然ですが、芦塚先生自身が子供を教える事があるという事すら、全く思っていなかったそうなので、純粋に、Mozartの少年期を研究するための参考楽譜として購入したものだそうです。

ザルツブルグ時代の幼いMozartの習作と思って買った楽譜なのですが、実際には、結構成長してからのケッヘル番号も結構後の336番で、一連の有名なPianosonate(母の死を暗示するような激情的なa mollのsonateや、天上的に美しいトルコ行進曲を含んだsonateや軽妙洒脱なB DurのPianosonate等々)の作品よりも後の作曲です。(1780年の作品と見られています。お母さんが死んだのは、1778年です。)

ですから、この作曲年代が本当だとしたら、「この曲では、もう既に、MozartのPianoの作曲技法の萌芽を見出す事が出来ます。」という一節は成り立ちません。
夭逝の天才Mozartとしては、もうすっかり円熟の境地に達した頃の作品と言えるからです。

確かに、それにしては、ついつい「この曲では、もう既に・・・・」と言いたくなるような幼さをのこしていますし、教会のパイプオルガン2台のための作品なので、ザルツブルグの教会用の作品と思われるので、私としては、この曲のケッヘル番号は、納得が行きません。
将来の研究を期待したい所です。

教育用の教材としてのorchestraとして、MozartのPianoconcertoや、他の作曲家のPianoconcertoの作
品を研究してみると、Vivaldiを含むbaroque時代の作曲家達の手による無数の弦楽器のための作品で、violinやcelloの楽器のための、「Vivaldiのorchestramethode」のように、orchestra伴奏でのmethodeを作り上げる事は、可能です。しかし、Pianoという楽器の場合には、orchestra伴奏という事では、Pianoconcertoというgenreになってしまうので、そのPianoを弾きこなすという演奏上の技術に、かなり無理が生じると言っても過言ではないと思われます。

つまり、Pianoに関しては、初歩や中級のlevelのconcertoの作品は、殆ど皆無という事が出来ます。
という事で、「MozartやHaydn、或いは古典派の作曲家の手によるPianoのためのorchestramethode」というのは、現実的には、編纂する事が作る事が出来ませんでした。

ですから、芦塚先生は、Pianoでは、orchestraのmethodeではなく、室内楽のmethodeとして、Piano含む室内楽というgenreで、初心者から、かなり上級のlevel迄のcurriculumを作りました。

という、お話の経過を通じて、Mozartのk.107のPianoconcertoと、kirchensonate Cという作品は、非常に珍しい比較的、初歩のlevel・・・???  

「初歩のlevel」・・・これは、かなり誤解を伴う言葉ですから、訂正しておきます。   
ここで言っている場合の「初歩のlevel」という意味は、あくまで、専門的に音楽を勉強している生徒達にとっての初歩のlevelという意味なので、一般的な教則本の、CzernyのEtudeに換算すると、40番をスムーズにin tempoで、演奏出来るぐらいの水準にはなります。

という事で勿論、一般的な音楽教室で音楽を勉強している人達のlevelに換算して言うと、当然、上級者のlevelになります。

しかし、音楽のprofessionalを目指す生徒達にとっては、Mozartは簡単な教材になります。

しかも、敢えて、ここでも誤解の無いように、老婆心から言っておきますが、proの人達が、演奏会でMozartの曲を演奏しようとする時には、Mozartの簡単な作品は、これ程難しい曲はありません。
Mozartを演奏する上での難しさは、演奏が上手くいった時には、聴衆にとっては、Mozartの曲は、「簡単な曲を、普通に当たり前に演奏した。」としか聞こえません。
しかし、ちょっとでも演奏に問題があると、一般の人達は、「こんな簡単で単純な曲も上手に演奏出来ないのかしら??」 と思われてしまうのですよ。
Mozartの曲を、完璧に演奏出来て、その上で、遊び心で演奏しないと、Mozartの曲は上手には聴こえて来ないのです。
それほど、pro泣かせの曲なのですよ。
外国のPianoの国際コンクールの予選(要するに評価の対象にならない出場者をふるい落とすための予選なのですが、)では、通常はchopinやLiszt、或いはRakhmaninovの技巧的な作品がよく課題に出ます。
しかし、コンクールの中には、音楽に対する理解と確実性を判断するために、MozartやHaydnのsonateをコンクールの予選に持ってくる国際コンクールがあります。
日本人のピアニスト達は、chopinやLiszt、Rakhmaninovの課題曲では、難なく予選を通過出来るのですが、一旦、Mozartのような古典派の作品になると、殆どの人達が予選を通過する事が出来なくなってしまうのです。
sonatineやsonateの段階の曲を正しく勉強して来なかった、古典派の作品を馬鹿にして来たそのツケが露呈してしまうのです。
予選にchopin等ではなく、Mozartのsonateが課題として提示されているコンクールは、簡単なコンクールではなく、非常に難しいコンクールとして、日本人の間からは敬遠されます。
古典派のsonatineやsonateも、コンクールのlevelで勉強しようとすると、逆に非常に難しい水準になってしまうのです。

しかし、今ここでのお話はそういった超高級難度のお話ではなく、未だ、pro未満の音楽に向かう卵達のお話です。
だから、proを目指す生徒達にとっての、あくまでも、未だ技術の習得の段階での、PianoのTechnikのlevel(水準 Niveau)に限ってのお話です。

という前提でのお話となると、難しい曲はMozartやHaydnではなくって、chopinやLisztのEtudeや、Rakhmaninovのpreludeの曲になりますよね。
だから、MozartのPianoconcertoを弾きこなすlevelが中級で、それ以上のRakhmaninovやchopinのconcertoを弾きこなすlevelが上級のlevelになるのです。

それは、あくまでも修業時代の技術に限った話で、国際コンクールのNiveauのお話ではありません。 

長い、長~~い、前置きはさておいて、
MozartのkirchensontaのCは、kadenzを演奏するように指定されているのですが、当然、scoreにはkadenzは書かれていないので、子供達のために、初歩の生徒でも演奏出来るように、芦塚先生自らが、Mozart風に作曲をしました。
また、kirchensonateには通奏低音のpartは書かれていなかったので、芦塚先生はkadenzを作曲しました。


勿論、この曲を作曲したMozartも、校訂したヤコビという人も、この曲を小学生が演奏するという事があるとは、まさか考えてはいません、・・・と、思いますよ。まさかね???

という事で、Pianoconcerto K.107のscoreは、
この曲を校訂したWolfgang Jacobiという人の手によって、Pianoがsoloを演奏しない部分の通奏低音(Piano)のpartとkadenzが作られているのですが、通奏低音のpartやkadenzのpartには、大人の人の手の大きさを想定して、octaveを多用しているので、ひかりちゃんは、当然、手がまだ小さいので、octaveに指が届かなくって、不自然で無理という事で、牧野先生からの注文で、急遽、(練習の回数も後半に入っってしまって、今から変更するのは大変だという話もあったのですが、手の形を無理をままで、不自然に演奏するよりは、練習期間が少なくても、自然な手の型で演奏をした方が良いという事で、)芦塚先生が「手直し」をする事になりました。
勿論、注文通りの手直しの譜面は、サッサと作り上がりました。

しかし、一旦、arrangeの作業に取り掛かってみると、そのJacobiさんの作曲したkadenz自体も、何処かしら不自然な箇所が多かったので、芦塚先生は、最初は、ひかりちゃんがoctaveで手が届かない所や不自然な動きの箇所を訂正しただけの注文通りの譜面を作ったのですが、どうもJacobiさんの作曲に納得がいかなくって、とうとう全面改訂をしてしまいました。

でも、芦塚先生がこの曲を、全面改訂したのは、「今回のひかりちゃんの発表会用」としてではなく、「次回に誰かが演奏してくれればよいかな?」と思っていたのだそうですが、ひかりちゃんが、「とても綺麗な通奏低音と、kadenzなので、一生懸命頑張る!」と言ってくれたので、今回の発表会で、急遽、新しいversionの曲で演奏する事になりました。
ご期待ください。

・・・て、言うか、そういう分けで、急遽の急遽なので、芦塚先生も、未だに新しいversionでの、ひかりちゃんのPianoの演奏を、聞いていないのよね。

後、ちょうど、後1週間で発表会なのだけどね・・・・??

明日、初めて、芦塚先生がひかりちゃんのPianoのlessonをするのだそうですよ!
後、一週間しかないのだけど、発表会や演奏会の前日や当日にでも、平気で、曲の音符の変更をするのは芦塚先生の癖のようです。
「それが私の悪い癖・・・・」なんだそうですよ。

以前、「幾ら何でも、発表会の直前に、曲の変更はないでしょう!?早めに最終稿を決めてください!」と芦塚先生にお願いしたら、芦塚先生に、「芸術には完成はないのだよ!」と、一喝されてしまいました。
芦塚先生自身が、伴奏等で演奏をしていた頃には、本番の直前に、電話で本番での演奏の変更を決めたりした事は、普通だったそうですし、本職の作曲やarrangeに関しても、レコーディングの前日の深夜の12時、1時頃に、プロデューサーが駆けつけて来て、arrangeの変更を頼まれて、朝の7時、8時頃に訂正楽譜を取りに来て、演奏家達が待つスタジオまで楽譜を必死に持って行くという、まるで売れっ子の漫画家のような生活をしていたそうです。芦塚先生が江古田に住んでいた理由は、江古田の教室は環七と目白通りに直結していて、出版社やスタジオ等から、夜討ち朝駆けをするのに頗る都合が良かったから、引越しをしないようにと言われていたからだそうです。
つまり、proでいる限り、手直しからは、手塚治虫だって逃れられなかったのですからね。

ダ・ヴィンチだって、ゲーテだって、あの偉大なベートーヴェンだって、40年間、50年間生きている限り、推敲を重ねていました。
限りなく完璧を目指すのが、真の芸術家(職人)なのですよ。

芦塚先生曰く、・・ではなく、全ての偉大な音楽家達の口癖は、「もし、あなたが『完璧に出来た!』と、思ったら、その時が、音楽をやめる時です。音楽家を廃業する時です。」だそうです。
教室では、Pachelbelのcanonに始まって、色々な曲を繰り返し演奏する事がよくありますが、「また、canon・・???この曲弾き飽きちゃった!!」とでも、言おうものなら、芦塚先生から大目玉を頂いてしまいます。
proという人達は同じ曲を1年間に100回弾く事だってあります。
飽きてしまって、心のない演奏をしたら、その次のリピートは無いと思いますがね・・??
芦塚先生の場合には、前と同じlevel(水準)で演奏しても、叱られてしまいます。「100回弾いたら、100回、ちゃんと向上しないと、proとは言えないのよ!」ってね!!
勿論、子供なのだから、proじゃあ、ないのよね??!!でも、大切な事は、そのproとしての技術が未だなかったとしても、子供でもproとしての意識は持つ事が出来ます。
proとしての意識さえ持つ事が出来れば、技術は自ずから付いて来るのです。
しかし、「もう飽きた!!」という一言は、その人のその曲に対する真摯なapproachを否定する事になり、音楽に対しての不誠実なapproachを意味してしまうのです。それは、もう音楽家とは呼びません。単なるamateurの音楽のLibhaber(愛好家)に過ぎなくなってしまいます。
それは、自分の努力の行き詰まりを意味するのだからね。

何処までも、endlessに追求する事、・・・
Leonardo da Vinci やBeethovenのように・・・ね!!
早く、そのendlessのstyle(生き方)に、慣れないとね・・・・???
アハッ!(14/3/29)




orchestraの一般常識と教室での一般常識

日本のオーケストラに限らず、世界のオーケストラでも団員にパート譜以外でスコアを渡すオーケストラは無い。
proorchestraではない音楽大学などの、勉強中の学生オーケストラでもしかり(然り)である。

それは一つには、オーケストラの団員はスコアが読めないという前提に立っているからである。
教室のオーケストラのように、年少の初歩のオーケストラの段階からスコアリーディングをさせる事は、世界的にありえないのだ。
ということで、オーケストラの団員が自分の演奏する曲をスコアで勉強するということは、個人的なことであり、オーケストラ全体としての仕事である訳では無い。
スコアーリーディングが出来る楽団員がいたとしても、その人が出来るだけで、そのオーケストラの人達が総て出来るワケではないという意味です。

基本的な考え方はorchestraの団員は大きな機械のたくさんの部品の1部であり、部品が全体を知る必要もないから、という考え方からである。全体を掌握するのはあたかも軍隊のように指揮官であり、各部品が意志を持って動いてしまうと全体がバラバラになって集団としての結束が成り立たなくなるからである。 1人ひとりのオケの団員がスコアで教材研究をしてイメージを持ってしまうと、オーケストラとしての統一性が成り立たなくなるからである。ということで、本来のオーケストラを研究すべき音楽学校のオーケストラですらスコアを持って各パートの響きや絡め合わせを研究することは無いのだ。つまりスコアリーディングというのは、指揮者やオーケストラの曲を作る側である作曲家の領域であり、それだけの難度を持っている非常に難しい技術であるからである。
ましてや、ピアノの学生がスコアでオーケストラの曲をピアノで演奏するということはありえない。これも指揮科や作曲科の学生以外ではありえないし、日本の音楽大学では作曲科の学生ですらスコアリーディングの授業は受けない。それほどの特殊な分野である。




scorereadingについて

普通は、Pianoconcertoの楽譜を買うと、2台のPianoのために書かれていて、ちょうど連弾のように、Pianoのsoloのpartの他に、orchestraのpartをPianoに編曲した2ndのpartが書かれている譜面になっています。

しかし、このように書かれている楽譜は、Pianoconcertoの全ての楽譜がそういう風に書かれていて出版されているわけではありません。
寧ろ、多くのconcertoの楽譜の中で、2台のPiano(勿論、弦楽器の場合にはsoloとPiano伴奏のpart)で書かれていて、出版されている曲の方が稀なのです。

それはorchestraのpartを、わざわざもう一手間掛けて、Piano用のscoreに(一般的には、こういったorchestraのpartをPianoで演奏出来る用にarrangeした譜面の事をPianoscoreという言い方をします。)出版社がアレンジャーの人に頼んで、編曲して出版しているので、(作曲者がPianoscoreを作る事は殆どありません。)有名なPianoconcertoやviolinconcerto等の以外の曲では、Pianoscoreは出版されていない事の方が多いのです。
勿論、それだけの手間暇とarrangeのためのお金を掛けても、100年に1冊、2冊しか売れないのでは、採算は取れないからね。出版社といえど、企業なのだからね。

・・・というか、出版されているのがorchestraのスコアーだけで、オーケストラのパートが2ndPianoにarrangeされていない曲を、一般の人達が演奏出来るという事は先ず絶対にない・・からなのです。

それは、練習の時に、orchestraのpartを、scoreを見ながら、Pianoで弾ける人は、極めて希な珍しい人だから、orchestra伴奏がarrangeされていない曲を、練習出来るという事自体が殆どない・・・という事ですよ。

と言う事で、このMozartのPianoconcerto K.107Gも、2nd partというか、練習やlessonで伴奏をするためのワキのpart、所謂、orchestraのpartだけど、勿論、この曲は、先程も書いたように、MozartのPianoconcertoの作品目録の中にも入っていない程の、大変、珍しい曲なので、当然、2ndPiano用にarrangeされた譜面は出版されていません。

普通ならば(通常ならば)、もしも、運良く、この曲をorchestraと合わせる機会があって、この曲を、練習しようとするのならば、orchestraのpartを2ndのPianopartにarrangeする必要があるのでしょうが、教室では、この曲が、30年、40年と、常に教室のレパートリーとして、発表会等で演奏され続けて来た「教室の常設曲」であるのにも関わらず、2nd Pianoのpartのarrangeは、芦塚先生は、未だにしていません。

その理由は、通常、concertoの2nd partのPiano伴奏は、concertoのsoloをする生徒の上級生(先輩)か、若しくは先生が、伴奏のPianoを演奏しますが、教室のPianoの上級生(芦塚先生の生徒達)なら、orchestraのpartは、別にPiano用に書き直された楽譜がなくても、scoreで、生徒達も初見で演奏する事が出来るからです。

しかし、不思議な事に、一般の音楽大学では、そういった勉強は、scorereadingという特別なcurriculumになってしまって、作曲科の学生や、指揮科の学生達が、何年も掛かって専門の先生から、厳しいprofessionalな勉強を受けます。
そういった特別に訓練された人達だけが出来る、特別な非常に難しい専門的なprofessionalな技術なのですが、芦塚先生の普段のlessonでは、そういったscorereadingのlessonをする事は、one lessonの時間的にも、そういった時間が全くないので、scorereadingの時間を設けることは作ありません。
しかし、教室の生徒達に限っては、不思議な事に、この超絶技巧的なscorereadingの技術を、いつの間にか習得しています。

芦塚メトードの七不思議で、一般の音楽を専門的に学ぶ人達が大変な苦労をして身に付ける技術を、「いつの間にか、気が付いたら出来るようになっていた!」という・・有り難みも何もない・・・・というか、信じられない・・・不思議なお話です。


要するに、時々芦塚先生が、orchestraのpartをscoreを見ながら、「リュウマチで指が動かない!!」とボヤキながら、初見で伴奏のorchestraを演奏しているのを見て、皆も、「それが当たり前なんだ!」となんとなく勘違いをして、いつの間にか出来るようになっているのですよ・・・。
勿論、「リュウマチが、・・」 じゃあなくって、scorereadingがですよ!!

芦塚先生の持論として、「先ず、先生が範を垂れる事!」
・・・これが芦塚メトードの基本です。

しかし、教室に面接に来る人達は、学生さんにしても、既に何年も指導歴がある人達も、音楽大学で習った程度の知識と技術力で、教室の先生が務まると思い込んでいるのですよ。

・・・という事で、箸にも棒にも掛からない、面接の希望者と、何度も無駄な面接をしなければ、なりませんでした。
・・・という事で、面接希望の電話が会った時に、教室の講師募集のホームページに教室のconceptをlinkさせて、そのホームページを読んでから、改めて、面接を希望するか否かの判断をするように・・・と、adviceしました。
・・・という事で、電話のあった殆どの面接希望者の、repeatはなくなりました。

・・・という事で、オケ練習や教室のlessonを聴講に来る面接希望者は、そういった、ホームページを読んでも、尚、面接を希望する得がたい人達なのですがね。
それでも、困った事に、オケ練習の時などに、生徒達と一緒に音楽をやろうとすると、何も出来ないのです。
教室で、子供達がなにげに、普段に、普通にやっている事、出来ている事が、音楽大学を卒業した人達が全く出来ないのですよ。

不思議とは、思われるかもしれませんが、年少の子供達と一緒に、アンサンブルすら出来ないのです。

・・・という事で、未だ遠慮を知らない(習っていない)年齢の子供達に「なんでこんな簡単な事が出来ないの??」と、率直に、不思議そうに、質問されてしまいます。

でも、一般の音楽大学では、そんな簡単な事は習わないのですよ。
驚く事はいっぱいあります。
以前、面接希望者に楽典の問題を出した事があります。
全音符、2分音符、4分音符の書き方、音名が言えるか?
「ふくふてんしぶおんぷ」や「ふくじゅうせん」とかを、漢字で書けるか??という質問です。

日本の国立の音楽大学や超有名私立の音楽大学を卒業して来た人達がこの問題を解けないのです。
全問正解が出来ない・・という意味ではありません。
一問も解けないのです。
10年以上も面接に来た人達に同じ問題を出しましたが、一人も正解出来た人はいないのです。

理由は、音楽大学では、そういった初歩の初歩の知識は常識であり、知っていて当たり前の事だとされるからです。
だから、自分達の学校を受験する生徒が、出来ない分けはない・・・という前提を疑った事はないのです。
知っていて当たり前の事だから、学生を指導する講師の先生達も、習った事はありません。負のspiralです。
音楽大学の先生が、書けないのだから、生徒が解ける分けはありませんよね。
日本の学校のlevelなんて、そんなもんですよ。

・・・という事で、自分が「こんな幼い年齢の子供達を、まさか、指導出来ない事はない!」と信じきっている聴講に来た先生の卵やベテランの先生達は、教室の子供達と一緒に音楽を演奏して、カルチャー・ショックを受けてしまいます。
・・・で、それから、2度と私達の教室を訪れる事はないのですよ。
他所の教室なら、そんな厳しい内容や技術を要求される事はないし、生徒も、その場で直ぐに、いっぱい回して貰えるし、兎に角楽だからね!!

だから、何度面接をしても、教室の先生のなり手がいないのですよ。
アハッ!


(この下のlesson風景の写真は、先ほど掲載した写真とよく似ているけれど、同じ時に撮った写真なのだけど、アングルは違いますよ。)
突然、オケ教室に呼び出されて、初見でオーケストラ・パートを演奏している美帆ちゃんは、当然ですが、芦塚先生も、ひかりちゃんもscoreで練習していますが、scoreでlessonをする先生は、世界中いないだろうな~ぁ??

いつの間にか、出来るようになって・・、という事では、オケ練習で、violinの生徒達が芦塚先生に細かく注意されているのを、いつも見ている間に、弦楽器の生徒ではない、Pianoの生徒達も、いつの間にか、violinを、正しい構え方で、正しい弓の持ち方で、正しいfingeringで、正しいbowingで弾けるようになっているのも、驚異ですがね・・・。

見ているだけのlessonなら、結構、他所の教室でもやっていますよね??それって、特別な事では、ないですよね。・・・普通ですよね??
でも、それで、見ているだけで、出来るようになる・・・という事はありませんよね。

だけど、どうして芦塚先生のlessonだけ、それが出来るようになるんだ・・・??

それには、ちゃんと、理由があります。
芦塚先生のlessonは、音楽を情緒的に感情的に指導している訳ではないのです。
論理的に構成されたlessonなので、誰がそれを見ても・・・、どんな楽器でも・・・という、普遍性があるのですよ。

教室のlessonを見学に来た他所の教室の先生が、「生徒はとんでもなく上手いけれど、先生達のlessonは、普通に普通のlessonをしているだけですよね。」「何処が、違うのか分からない!」と、悩んでいました。
芦塚先生に至っては、生徒と冗談を言って、遊んでいるようにしか見えないのだけどね~ぇ??
それで、どうして、上手くなって行くの??不思議だ!!!

斉藤先生が「普通のlessonを、普通にする事が難しい・・というのが、分からないのかな??」と言っていましたが・・・。

それに、「どう、弾かせるか??」というのも、一般的な、音楽性や情緒的という言葉で片付けられるような、感情的なlessonではなく、論理的な裏付けがちゃんとあるのだがね。
そこの所が、一般のlessonとは、微妙に、少し、違う所かな??

「ここの所は、こういう理由だから、こういう風に弾かなければならないのだよ!」と説明すると、情緒的に演奏出来る場所と、ちゃんと、約束事を守らなければならない箇所の区別が小学3年生でも、4年生でも、分かるのだよね。

ひかりちゃんも明後日が過ぎるまでは、未だ4年生ですよね。(今日は未だ3月の30日なので・・・)
それでも、芦塚先生は結構論理的に説明をしています。芦塚先生にとっては、その時その場で、理解する必要はないのです。その説明を本当に理解出来るようになるのは、大人になって、proになってからのお話だろう・・という事です。
でも、それを理解出来るようになるには、色々な曲でその事を練習し続ける必要があるからです。
今年は、10%、来年は20%と、徐々に出来るようになれば良いのですよ。
芦塚先生は、本当に理解出来るようになるまで、100回も言い続けるのです。
でも、子供達は前回理解出来たのは10%で、今回は20%なので、同じ事を注意されたとは思わないのです。
canonを1年中やり直すのと、同じ理屈です。初歩versionのcanon、初級versionのcanon、中級、上級、proversion、次にはbaroqueversionのcanon迄、curriculumが変わって行きます。
だから、同じ曲を繰り返し練習していても、前回よりも確実に難しくなって行くのです。
芦塚先生のendlessの勉強法なのですよ。

ここで、チョッと寄り道をして、楽典の話をしますが、一般の楽典の場合には、教科書のような楽典の本や問題集等で、勉強するだけなのですが、教室での楽典の場合には、そのconceptが、少し違います。
芦塚先生の勉強法方と同じで、こんにちの学校の勉強や塾の勉強のように、問題の回答が合っていればそれで良い・・・、という考え方ではなく、その問題の本質を追求していくという勉強の仕方です。

教室の基本的な楽典の位置づけは、lessonの時の先生達の理論的な説明が理解出来るように、というのが一つですが、もう一つは更にlessonで使用する楽語等を本当の意味で理解出来るようにするという意味もあります。

例えば、だんだん遅くするという楽語は、一番一般的な単語のrit.リット(ritardando)から始まって、その相棒のrall.ラレンタンド(rallentando)から、本当に無数なぐらいに楽語があります。

その単語を覚えるだけ・・というのが、一般的な楽典の勉強でしょうね。

でも、同じにただ遅くするという意味だったら、そんなに無数の単語を覚える必要はないですよね。

同じだんだん遅くしながら、だんだん弱くするという意味の単語でも、morendoという単語や、perdendosiという単語や、勿論、他にも無数にあります。

芦塚先生の一手間が、やはりここにもあって、オケ練習でも、「何故、ここはperdendosiなの??どうしてmorendoではダメなの??」と質問が飛びます。
「では、morendoとperdendosiはどう違うの?」という質問が始まります。
この問に答えられる(音大生ではなくって・・・)音楽家は希です。
proと言えども・・・です。

そこから芦塚先生の薀蓄(ウンチク)が始まります。
「perdendosiという楽語はねぇ??私が深夜、鬱が酷くなって来て、『あ~ぁ、このまま死んでしまいたい!いや、死んでしまうのかな??』って感じの時に使うのだよ!!」「さて、perdendosiという楽語は使われていなかったけれど、perdendosiな感じの終わり方をしたorchestraの曲は、どの曲だっけ??」と質問が投げかけられます。

生徒達は、「う~~ん???」と考え込むのだけどなかなか出て来ない!

芦塚先生が、「ほら、八千代を思い出して・・・!!」とヒントが飛びます。
「あっ!!purcellのchaconneのgだ!!」と、思い出します。

「では、purcellのbenjamin Britain版のchaconneには、どう書いてあったかな?」
「最初はslowerから始まって、dying awayって終わるのよね!!」
「そうだよね?!dying awayって、まさにperdendosiでしょう?」
「ふむ、ふむ!!」と納得します。それで、始めてperdendosiが理解出来たのですよ。
だんだん遅く だんだん弱く、消え入るように・・では、ないでしょう??
人生に疲れきって、生きる気力もなくなって、もう死んでしまうような感じなのですよ
そんなに、perdendosiという楽語を追求している音楽家もいないのかな???


今日(日曜日の総合練習で)の芦塚先生のひかりちゃんのlessonに、急遽、orchestraの伴奏partを弾いてくれる先輩のお姉さんは、普段は、Cembaloのpartか、orchestraでは、Kontrabassのpartを演奏していますが、Pianoのお姉さん達は、前回のクリスマス会や今回の全体合奏では、violinのpartを弾いています。

それに、celloのお姉さんが、Kontrabassのpartを弾いていて、・・・・う~~ん??ややこしい・・!!
色々な楽器の奏法を全くlessonで習っているわけでもないのに、いつの間にか、パッと楽器の持ち替えが出来るようになっているのは、全ての楽器の演奏法が、「芦塚メトード」という理論で構成されているからです。

つまり、Pianoを勉強していても、伴奏やオケ練習等で、弦楽器を見ているだけで、いつの間にか、持ち替えが出来るようになりますし、それに、オケ練習に登場する弦楽器だけではなく、一度もlessonを見た事のないrecorder等の管楽器への持ち替えも、普通に簡単に出来るようになってしまうのだから、不思議です。

勿論、普通の教室では、世界中、どこを探しても、そんな事が出来る教室(curriculum)は、有り得ないのですよ。










あれれ??
コントラバスを弾いているのは、誰だ・・??
それに、何時も、コントラバスを弾いている美帆ちゃんと智子ちゃんは、何と?!ヴァイオリンを弾いているぞ・・??


(13年12月22日の前回のクリスマス会での光景です。)




楽器の持ち替えについて
(一芸に秀でる)


楽器の持ち替えについては、芦塚先生の昔からの持論で、「過去の偉大な作曲家は、同時に優れた演奏家でもあった」のだが、Handelの時代から、作曲家にとっては、何の楽器が弾けたのか?という質問よりも、芦塚先生がGenzmer先生にした時のように、『先生は、何の楽器が弾けないのですか?』という質問の方が、妥当なぐらい、色々な楽器に堪能だったのだよ。」という話をよく聞きます。
日本では、反対に、「音楽家が色々な楽器を演奏する事は、amateurismでproは絶対にそんな事はしない。」と通説では、言って、色々な楽器の奏法を研究していた芦塚先生の事を周りの音楽家の友人達は「amateurismだよ!!」と言って、結構批判していたそうです。

でも、ピアニストのエッシェンバッハはviolin科の卒業生でもあるし、グルミヨーがMozartのviolinsonateの伴奏を自分でPianoを弾いて伴奏しているCDがあったり、Genzmer先生に至っては、未だ音楽学校を卒業したばかりの不遇の時代には、教会でオルガンを弾いたり、オペラ座で2nd violinを弾いたり、伴奏ピアニストをしたり、していたそうです。
中でも、ヒンデミットのクラリネット・コンチェルトをクラリネットで世界初演をしたそうですが、それは曰く「世界最高のクラリネット奏者という意味だよね!!」

つまり、一芸に秀でる人達は、色々な事が出来るのですよ。
一流の俳優が優れた絵を描けるように・・・、アングル(画家)のviolinという諺もあるのだけどね。
芦塚先生は、「色々な楽器や、色々な仕事のgenreはあるかもしれないけれど、proというのは、一種類しかないのだよ!」と言っています。
「一つを極めれば、proの全てのgenreが見えて来るはずだ!」というのが、芦塚先生の口癖です。

但し、ここで一番一般に勘違いされ易い事は、色々な事を追求すれば、色々な事のprofessionalに成れるという、日本流の勘違いです。
しかし、そういう事は絶対にありません。
色々な事を勉強すれば、博識のamateurには成れるかもしれませんが、professionalになる事は無理なのですよ。

日本は世界でも希な、横並びの国です。
「出る釘は打たれる」とか、人と同じ事をして、その中で一番を競い合います。
個性的という事は、日本では批判される事はあっても、評価される事はありません。
人と同じ事をやって、その上での評価なのです。
誰もやっていない事をやっても、評価される事はないのです。
日本では、皆と同じ事をやっていれば、社会や家族は安心します。
その中での、競争を強います。
まさに井の中の蛙(かわず)・・です。
しかし、小さなコミュニティの中で、評価されればそれが全てになります。
学校での合唱コンクール等があります。不思議な発声法をして、学校のコンクール教材用の歌を歌います。それで、日本一になったとしても、それが社会で評価される事はありません。
Classicだから、という分けではなく、popularやジャズのgenreであったとしても、そういった不思議な表現スタイルは存在していないからです。

以前、小学校や中学校の先生達にその話をしていた時に、芸美を卒業して小学校で絵の指導を現場でしている先生から、「学校の絵画の授業も、全く同じですよ。」と話かけられました。
学校の中でしか通用しない独特の世界なのだそうです。
「学校教育、校門をいでず」という諺もあるのですがね。
小さなコミュニティと言ったら、学校はその最たるものかもしれませんね。


一番、人数の多い所での、競争・・・・、芦塚先生はそれを、何時も「辛い選択!」と言って哀れんでいます。
人がやらない事をやれば、競争相手は少ないので楽なはずです。
日本人これまでやってきた、世界に認められた非常に優れた研究も、全て、世界中の人達がやっていない研究です。

でも、当然、それ等は日本が認める事はありません。

だから日本人の優れた発明や発見、が全てアメリカや他の国に持って行かれてしまうのですよ。
テレビや、今の科学の最先端のファイバーグラスの発見も、日本に特許はないのですからね。
ファイバーグラスというのは、今はパソコンの光通信をするのになくてはならないものです。
日本人の発明家がそれを発明した時に、日本の大手企業はグラスファイバーが何に使えるのかが分からなくって、その価値を評価しようとはしませんでした。と言う事で、その発明家はアメリカの企業に安くその特許を売ったのです。そういった日本では認められなかった技術が今、世界中に使われているのですよ。
それを、日本の社会が、「日本人の発明だから・・」といって、大切にしていたら、今の日本社会の不況はないのだけどね・・・??

個人の発明や研究の正しい評価をするのは世界であって、日本ではないのですから。
日本の常識、世界の非常識という諺通りにね。

「そんな、大仰な事を言われても、・・・」と、思われるかもしれませんよね。でも、世界は、今の日本では、すぐ身近にあるのですよ・・・???

日本もこんにちではグローバル化を叫ばれて久しいのですよ。

こんにち、大手の企業は、日本人の採用をやめて、世界の人達を就職に募集しています。
有名大学の就職予備軍は、大手企業に就職を目指して必死ですが、企業が欲しがっているのは、日本の教育を受けた学生ではないのですよ。
もっと、自己PRの出来る個性的な人材なのですよ。
でも、個性的と言うと、直ぐに日本人は「独りよがり」な性格と勘違いをする・・・困ったものだ!!!

個性とは発想や着眼が優れている事で、ユニークという意味ではないのだよ。
でも、ひらめきや視点、着眼点を変えるという教育は日本ではタブーなのだよ。
就職には、黒のスーツと決まり決まっている日本社会には、個性は認められない。
個性、それが一般社会の就職や評価にも繋がっているのにね??未だに、出る釘が教育界にのみまかり通っているのです。
摩訶不思議な日本の社会ですな??


capacityのお話

と言う事で、芦塚先生のいう、何でも出来るようになる・・・という意味は、色々な勉強を広く勉強するという意味ではないのですよ。

そこがよく勘違いされる事なのですがね。

特に、子供の場合には、まだ、勉強した物を入れる「入れ物」が成長していないので、勉強する範囲を広く深く、すればする程、溢れ出して、結果、集中力や記憶力を失ってしまう結果になってしまいます。
また、入りもしない大量の勉強を無理やり詰め込もうとすると、勉強嫌いになってしまい、人間である条件である、知識を吸収するという能力さえ失われてしまいます。
その無理やりは、そういった学力だけではなく、子供の成長する力を奪って、発達不良や、免疫不全等の、体の病気すら引き起こしてしまいます。
免疫力がない・・という事は、嫌な事をやらされているという事の証でもあるのですよ。

体力がない!しょっちゅう風邪をひいている・・・というような、症状も嫌な事を、何が何でもやらなければならないという事に対しての、体が拒否反応をしているという事が多いのです。

子供の成長に対する教育の仕方は、食育に比較して説明すると分かり安いかもしれませんね。
客寄せのために、絶対に無理な量の大皿の食べ物を強引に食べると、1万円のお金が貰えるといったような客寄せイベントのように、そのお店の食べ物が幾ら美味しかったとしても、味も量も無視をして、強引に胃の中に詰め込むだけならば、お客さんはそのお店の味を味あうという事はないでしょう。そういったイベントをするお店の味は私は信じません。だって、そのお店は客寄せの為ならば、大切な食事を粗末にしても良いという考えなのでしょう?

音楽でいうならば、聴衆受けを狙って、受け狙いの曲ばかりを演奏するマスコミ型の演奏家のようなものです。
だって、そういった番組に本当の一流の演奏家である、シェリングやグルミヨーのような演奏家は絶対に来ませんよ。

そういった、有名になれるのなら、Classicの演奏家である事を捨てて、popularの曲を演奏しまくっている受け狙いのピアニストのようなものですからね。

確かに、その人の人生の究極の目的が、「有名になる事」「人に知られる事」ならそれでも良いのですがね。
でも、それなら、Classicである必要は無いのでは??・・・Classicじゃあ、ない方が、(popularの方が)お金も儲ける事が出来るですがね。・・・と思ったりするのですがね。

幾ら、強引に詰め込んでも、それでは決して子供の成長の助けにはならないし、強引な努力をしたとしても、それがその人自身の心や生活の手助けには、決してならないと思いますよ。
でも、人がやるから・・致し方なく・・・、というのが、日本の現状でしょうかね。

反対に、子供の口に入る分だけを、内容を厳選して、美味しいものを、楽しく(←これが大切よ!!) ゆっくりと、確実に食べさせると、それは100%確実に、子供の栄養となって、確実に身に成り、骨になります。
そして、子供達の体は確実に大きく成長し、吸収出来る内容も広く深くなって行くのです。

芦塚先生が何時も言っている、時短の法則と同じで、一見するとまどろっこしく、遠回りに思われる確実なやり方が、結果的には時短になるのですよ。

子供の体と同じように、勉強も、子供が本当に興味のある物を、なるべく深く、詳しく、より専門的に探求して行くと、成長するに従って、体の成長と同じように、だんだん成長して大きくなって行きます。
その時に、広く浅く勉強した人達よりも、勉強の範囲が劣っているように一見する見えてしまうかもしれませんが、実は、人よりも深く専門的に勉強したその勉強のNiveau(水準)が、新しい勉強に対しても、また、周りを見る客観的な観察力も、自分の専門の分野と同じだけのNiveau(水準)で、見たり、判断したり、理解したりする事が出来るようになっているのです。
その結果は、広く浅くの人達よりも、遥かに広く深く(!!)理解し、知識として確実に自分の身にする事が出来るのです。

つまり、言い方を変えると、一芸に秀でた人だけが、同じ水準で色々な事が出来るようになるのです。
それを日本では、才能と勘違いして、「あの人は、所詮は、最初から、出来が違うのよ!」と生れつきや才能で片付けてしまいます。
芦塚先生の一言で言うと、「才能という言葉は、努力をしたくない、という人達が自己弁護のために作った言葉である。」という事です。
「才能がないから、努力はしたけれど、諦めたわ!」というのも、芦塚先生に言わせれば、「諦めたから、才能が育たなかったのだ」という事だそうです。

芦塚先生は、最初から才能がなかったので、(芦塚先生の場合の才能のお話は、高校生になるまで、「何も習っていなかったので・・・」という意味です。)何を始めても直ぐに行き詰まって、一歩も先に行けなくなってしまったそうです。ですから、今で言う小学校の内申書には、飽きっぽい性格・・と書かれていたそうです。3日坊主の飽きっぽい性格の芦塚先生が音楽家になるとは、不思議ですよね。
有り得へんわな???

芦塚先生が小学校の時や、中学生の時には、その事に飽きてしまったら、躊躇なく、積極的に挫折をしたそうです。
塾もない頃の時代なので、受験勉強等一度もした事はないし、学校の宿題さえ一度もした事がない。
宿題なんかは、良家の子女のお坊ちゃんお嬢さん達がすれば良いので、小学校の時には、学校なんかには行かないで、犬を連れて一日中山学校で、中学生の時には、ゲーテやヘルマン・ヘッセの本や太宰治を徹夜で読み耽る文学少年(?まさか??)高校生の時にはPianoにトチ狂っているおバカな高校生をやっていたそうです。
「お母様は、そんな芦塚先生を見て、何とおっしゃっているのですか??」
お母様は、子供が何をやっているのか、全く知らないそうです。
芦塚先生は、お母様とは別居していたからですよ。
結婚して、家を出ていったからですよ。

親子断絶の極みって所かな??

でも、段階の世代の家庭って、そんな人達が多かったのだよ。
まだ、戦後を引きずっている人達も多かったのでね。

それに、音楽大学の入学金も、東京での学生生活の費用も自分で出していりゃ、親との関係も、そんなもんでしょうよ!
音楽大学の入学金と留学の時の渡航費用は叔母が出世払いで貸してくれました。
音楽大学の学費だけは、芦塚先生のお母様の旦那様が出してくれたそうです。
勿論、生活費は、勘当なので、芦塚先生自身が、大学1年生の時から、自分で稼いでいました。
その頃の方が、今よりも稼ぎは良かったのよね。

芦塚先生が小学校の時や、中学生の時には、その事に飽きてしまったら、躊躇なく、積極的に挫折をしたそうです。・・・て、所から、話を戻して、そして、ある程度、期間を開けて、(長い時には1年、2年のブランクを開けて)また再開をするのだそうです。それは作曲や執筆も、いや、全ての仕事に対しても、同じようなスタイルで仕事をしているそうです。

だから、書きかけの小説が20冊近くもあって、20年、30年も気が向いたら、開いて、推敲と手直しを続けているのだそうです。
芦塚先生、直木賞でも狙っているのかな??
「否、絶対それはないよ!!」と横で芦塚先生が言っています。はい! (^-^)/

つまり、結論的に言うと、挫折は、「やめてしまう」から、挫折になる訳で、「またやり直す」と、それは「ブランクにしかならない」そうですよ。

だから、芦塚先生の辞書には、「挫折というものは有り得ない、あるのは、諦めるという事だけである」だそうです。
また、芦塚先生の大切な人生訓の一つでは、「挫折をした」という事は、「研究をするべきthemaが出来た」という喜ぶべき事だそうです。

芦塚先生のホームページに、「挫折の勧め」というPageがあります。(すみません。renewalのために、開かなくなっていました。後日ページが完成したら、linkさせます。)
親は、過保護になってしまい、子供の失敗するのを恐れる余りに、子供の可能性を片っ端から潰して行く・・という事をよくします。

でも、それでは、子供が大人になった時、いや、中学生になった時、高校生、大学生になった時に、失敗をしないで、周りと協調して生活して行く事は有り得ないのですよ。

芦塚先生は、心理学の理論から、引き籠もりやニートは、せいぜい30歳を越す事はない、と思っていたそうです。
しかし、現実には60歳、70歳を過ぎても引き籠もりを続けている子供(???)がいるそうです。・・・という事は、その親は80歳90歳ということでしょうかね。
さすがは、**日本です。それだけの経済大国だから出来る業なのでしょうね。
だから、今の親の中には、一生子供を自宅で面倒を見ようとする親がいます。
NHKのビデオを見ていた時に、60を過ぎて、引き籠もりを続ける子供(・・??60を過ぎて子供???)に、親が、「こういう風に育てたのは私達なので、子供が死ぬ迄私達が面倒を見ます。」と言っていました。
でも、親の方が、多分、子供よりも、年上だと思いますよ。
普通は歳の順に死んでいくのでは? 死んだ後の子供の事なんかは、知らないか・・??
それも、究極の無責任だと思うけれどね。

どんな、優れた、ノーベル賞を受賞するような人達でも、口にする言葉があります。
一つは、勿論、「好きだ」という言葉ですが、もう一つは、間違いや失敗から、大発明が生まれたという事です。

エジソンが70回目の失敗を、弟子に批判された時に、すかさず返した言葉は、「これでこの方法ではダメだ!という事が証明出来たじゃないか!出来ないという事が分かったという、成功だよ!」と言っていたそうです。これを屁理屈と思うのか?それとも「凄い!」と思うのか・・の違いでしょうね。

昔、ある生徒が楽典の問題の間違いを、消しゴムで消して、正しい答えを書いて、赤鉛筆で丸を書いていたので、芦塚先生が、「間違いを消してはダメだよ!」と、注意したら、子供が「だって、間違いがあると、お母さんが怒って怖いから!!」と言ったので、絶句していました。
確かに、そのお母さんが子供が間違えた時に怒る怒り方が怖いと先生達が言っていました。
間違えた・・・という事は、全く問題ではないのですよ。
「何故、間違えたのか?」そこにはちゃんとした理由があるのです。
その理由を知る事なく、「間違えた」という事だけを叱っても、勉強が嫌いになるだけなのです。

発表会で大切な事は上手に弾く事ではなく、ちゃんと課題がこなせたか?という事です。
課題がこなせなければ、幾ら完璧に演奏出来たとしても、余り意味はないのですよ。



ついでに、芦塚先生の理論では、「諦めるのは嫌いになったからであって、本当に好きなら諦めるという事は有り得ない」のだそうです。
本当に好きなら、誰が何を言っても諦める分けはないからね・・??
当たり前か???

才能とは「好き」という意識が、作り上げた技術だという事を忘れてしまうのです。
「音楽でこれだけの事が出来るから、きっと、勉強も同じぐらい・・・」と考える人達がいます。
でも、幾ら音楽が好きでも、好きなだけでは、上手くなる事はないのですよ。
好きは、上手になるための絶対必要条件です。しかし、そこに、音楽を好きにさせようとする先生達の涙ぐましい努力が必要なのですよ。
子供が自分から、生れつき音楽が大好きだという事は、極めて希です。
それは、両親が音楽を愛していて、家に音楽が溢れていて、しかも、自分の子供を音楽家に育て上げたいという両親の場合だけなのですよ。
それ以外は、全部先生達の努力の成果だなや??
(子供が音楽に進むようになるという話ではなく、子供に音楽を好きにさせる、という話でも、音楽を好きにさせる・・というカリキュラムが必要なのですよ!?子供に何かを好きにさせる・・・という事は、大変な技術なのですよ。一般では、本人が自然に好きになる・・・と、思い込んでいます。だから、もっと、上手にさせたい・・と、有名な教授の所に入門させる。そこで、音楽をすっかり嫌いになって、挫折してしまう。という事の繰り返しなのですよ。)
音楽を好きにさせる事、・・・それだけでも、結構、難しいTechnikが必要なのだけどね。

芦塚先生が、音大生に、「音楽の指導者は、子供達に音楽の素晴らしさや音楽の楽しさを指導して欲しい。」 と言ったら、その音大生が烈火の如く怒って、「音楽は楽しいものではありません。」と、言ったという話に戻るのですよ。
「音楽は辛いもの。」それが、音大生の音楽に対する意識なのですよ。
だから、某国立の音楽大学の教授についたら、挫折してしまったのです。音楽に対する考え方が根本的に違ったからです。

集中力について

芦塚先生のもう一つの大切な格言は、「二兎や、三兎を追う者は一兎も得ず!」というのがあります。

つまり、芦塚先生の正しい格言の意味は、「一兎を追う者は、二兎や三兎を得る事が出来る。しかし、二兎や三兎を追う者は、一兎も得る事は出来ない!」という原理なのです。

それは、stageの違いを追求しているからなのですが、stageについての話は、少し難しくなりますので、論文に書いてありますので、そちらを参照してください。


もう一つ、芦塚先生の口癖を・・・

芸術家とは、後世の人達が認めて評価した、称号であって、自称proや自称芸術家は、本当の意味でのproではない。
芸術家とは、自分で決めるものでも、その時代に評価されるものでもないからである。

だから幾らマスコミで祭り上げても、その芸術家の評価はマスコミで取り沙汰しなくなった途端に消えてしまう。
歴史的な普遍性はないのだよ。

HaydnでもMozartでも、果てはGenzmer先生でも、「職人であれ!」としか言わない。
優れた職人がproであり、芸術家なのだよ。
(2014/3/30日曜日の総合練習の前に・・・AM7時、、今から千葉の教室まで、出かけます。)







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