クリスマス会と冬の合宿 千葉市花園地区

             2017年12月23日クリスマス会 千葉市花見川区花園自治会館





冬の合宿

12月25日〜27日

2017年12月25日 ・

今日は冬の合宿の初日でした。
超朝早く準備をして出かけたにも関わらず、着いた時間は何と定刻の1時半でした。
ハイツを出発して、千葉に到着する迄に、2時間以上の時間が掛かってしまいました。まあ、Christmasなのだから仕方がないと言えば、しょうのない事なのですがね??

それにしても、相変わらずのオケ練習の「段取りの悪さ」には辟易させられるのだよな。
子供達のお喋りの時間の方が、練習時間よりも長くって、それで、どんどん時間が押してしまって、「後片付け」の躾は、小学生達には、未だに出来ていないので、子供達に後片付けを、任せる事が出来ず、私も胸の痛み(心の痛みではないよ??本当に胸の骨が痛いのだよ?)を堪えながら「後片付け」を手伝っていたら、完全にぶり返してしまったのか、帰りの車の運転では、脂汗が出る程、胸が痛んでしまって、運転するのに、飛び上がるほど痛くって、大変だったのだよ。

「段取りの悪さ」の究極の原因は、自分達が失った「loss-time」の時間を、自覚出来ていないのが、一番、根本的な理由なので、折角の合宿なのだから、実際に、生徒達や先生の手順について、明日からの練習で、練習と練習の間のintervalの間に、どれだけの「loss-time」が出るか??を、正確に時間を計って、一日の合計の時間の中で、どれだけのloss-timeの時間が出来るか??「時間のlossをするか?」を、身を持って、実感すると良い・・という宿題にしました。

オケの指導そのものに関するpointは、指導の内容を如何に、詳しく正確に、把握するかによります。
教室のオケ練習のinterpretationは、material(要素)に拠る指導法を使用しています。
だから、その曲に対して、materialが幾つあるか?…を知る事で、演奏の技術を幾つ習得しなければならないのか??…が自動的に決まります。
と言う事で、練習のpoint出しは、materialの把握に尽きます。
もっと、具体的に言うと、scoreを見て、楽譜上で、分析が出来るか否かに、練習の上手下手が委ねられているのです。
scoreを分析する能力次第で、練習の上手下手が決まるのです。

今回の発表会の課題曲のBoccheriniのconcerto・・なのですが、Haydnや他の作曲家に比べてorchestraの演奏技術が非常に難しいとされるBoccheriniなのですが、その最たる理由は、この曲が、orchestraの書法ではなく、室内楽の書法で書かれているからなのです。

今日は、そのBoccheriniのconcertoの室内楽的な部分を、練習の仕方を具体的にpickupして、説明をする事で、明日の練習課題と、しました。
明日は、その部分を正確に室内楽のように演奏出来るように、pickup部分の抜き出し練習をすれば良いのです。

日本では「もし、proを目指すのならば、教授classの先生に師事しないといけない」という考え方が一般的です。
私としても、その考え方自体は、吝かではありません。
昔々、教室を開設して間もない頃のお話なのですが、生徒を教え始めた時に、私が指導している生徒の中の一番弟子の生徒が、とても上手になったので、引っこ抜きにあって、芸大の教授の所に弟子入りに行ってしまいました。
誘ってくれた人の建前では、「2,3度lessonを受けて見て、気に入らなければ、元の先生の所に戻れば良いのよ!!」という事だったのですが、実際にはそう簡単な事ではありません。
「取り敢えず、結婚して、気に入らなければ、別れれば良いのよ!」というadviceをよく聞いた事があるのだけど、それで別れても、傷つくのは本人なのだけどね??私は男性なので、そうまでして、結婚したい気持ちは分からないのでネ?

「先ず、1,2度、lessonを見て貰う」・・というお試し期間のようなlessonは、少なくとも音大の教授classになると、無いのですよ。
一度、lessonを見て貰ってしまうと、その次点で、100%、師弟関係が成立してしまうのです。
その先生が、気に入らないから、弟子入りするのを止める…というのは、音楽の社会的には、許されないのが現実なのです。
それで、私の生徒であったその生徒は、憧れの芸大の教授に、初めて指導を受ける事が出来るので、喜んでいたのですが、実際に指導を受けて、余りの事にcultureshockを受けて、1年間は辛抱したのですが、直ぐに音楽自体を止めてしまいました。
だって、芸大の主任教授なのだから、それ以上、上の先生はもう日本には、いないからなのですよ。
そういった事が、その後も、立て続けに2人,3人と続いたので、すっかり音楽教室を続ける事が嫌になってしまいました。

・・と言う事で、優秀な生徒達に逃げられてしまう・・という現実の社会に少なからず、shockを受けて、教室を存続させるか否かを悩んでいたら、何時も楽器を買いに行く楽器店の社長のお姉さんが、「芦塚先生? 律儀に子供を教えないで、或る程度上手くなったら、芸大の先生にドンドン回せば良いのよ?? そうしたら、あの教室で教わって上手くなると、芸大の先生を紹介して貰えるよ?・・と言う事で、生徒が集まるわよ!」というadviceをして来れました。

「芦塚先生が何でそこまで、子供に執着して生真面目に指導するのか分からない??」とも、言っていました。

例え、芸大の教授であったとしても、子供を指導する限り、生徒がその先生の元を去って行くのは、仕方のない事なのでね??
だから、子供を指導する先生で、生徒に執着する先生はいないのですよ。
そんな事しても、自分には何も返って来ないので、そういった努力をしても、仕方がないのでね。

まあ、そりゃあ、そうかも知れないけれど、真摯に指導するためには、或る程度は、のめり込まないと生徒は上手くならないのでね??
のめり込んで、生徒に逃げられて、苦い思いをしてもしょうがないのだけど、まあ、ほんと、痛し痒しの所なのかな??

そういう事で、当時の生徒達には、取り敢えずは、日本の有名音楽大学に進学させるのは止めて、高校生から直接、海外に留学させる道を選らんだのですが、その子供達の、その後をみると、それも、まあ、良し悪しよねえ??
結果論的に言えば、やっぱり、私が、自分で指導した方が一番結果は、良かったのですよ。

まあ、「proになりたければ、芸大の教授に・・」は、許せるとしても、そういった「親方日の丸・・か、寄らば権威・・」で、「proの道が約束された」・・と思い込むのは、余りにも安易で、浅はかな話ですよね。
そんな都合の良い話がある分けはないのに、それを信じている人がいる。
現実的にどの社会で、親方日の丸で、現実的に、その生徒の将来が約束される事はあったのかな??
私はそれを、一度も見ていないのですよ。
本当に・・??
だから、「proになりたければ・・」というのは、幻想に過ぎないのです。

音楽のお話なので、現実の生活を伴わないので、そういった妄想が起こりやすい事は事実なのです。
だから、私の冠動脈のお話をすると、10年前の、当時は手術の技術levelが低かったので、(この10年間で医療は目覚ましい進歩を遂げています。10年前の医療の技術は、今に比べると、殆ど原始時代に近いものがあります。)
私が50歳を過ぎた辺りから、心臓の異変に気づいて、江古田教室の近場の民間の大きな総合病院に通っていました。「冠動脈が・・」とか何時も言っていたので、一応、循環器内科に通っていたのですが、若い先生達は「素人が何を言う」と取り合ってくれませんでした。通い始めてから、5年以上経った頃、やっと心電図に引っ掛かって、大学病院に日帰りの検査とダメならその場でドリルで治療という予定で出掛けたのですが、治療が不可能で、ダイヤモンド・ドリルを準備しての再検査になったのだけど、それも無理の手遅れと言う事で、パイパス手術と言う事になってしまいました。
そこの大学病院では、人工心臓を付けての手術で、3本の内の1本だけを生かすのが精一杯という事でした。その場合には、生命を司る頭に行く血管だけを助けるので、寝たきりになる予定だったのですがね。
先生達が必死に色々と病院の名医を探してくれて、当時は未だ非常に珍しい(今では当たり前の手術になってしまいましたが)心臓を動かしたまま、手術をする先生を探してくれました。
緊急入院をした大学病院のCatalogには、セカンド・オピニオンを推奨する・・と書いてあるのですが、現実は全く違って、「もし、何かあってもこの病院には戻らないでください。」と喧嘩を売られてしまいました。
勿論、戻る気もないけれどね。

今では超有名な先生であるその先生も、当時は日本のacademismと真っ向からの喧嘩をしている先生で、その先生の手術の技術のお陰で、今もこうして働いている事が出来ます。感謝感激です。
当時の周りの人達からは、「何で大学病院を逃げたの??」と不思議がられて、ブーイングをされてしまいましたが、自分の生死が掛かっているのだから、親方日の丸では無い…大学の教授が良い、なんて言ってられないのですよ。
本当に治せるか否かが問題なので…ネ?

でも、音楽の事、教育の事となると、そこまで真剣に、真摯に取り組む人は少なく、周りの無責任な意見に惑わされる人達が多いのは事実です。
その話をしていたら、岩城さんに「それもその人の才能の内なのだよ?」と言われてしまいました。
岩城さんも芸大を中途でやめた人なのでね。
徳さんも高校で勉強の途中でN響のコンマスになったしね??

何時も言っているように、音楽に学歴は必要はないのですよ。
職業なので当たり前なのだけどね。どうしても、日本人にはそこの所は理解出来ないのだよ。
一般の人達は、常に「寄らば・・」なのでね。

実際に、その現実を見たければ、芸大のOBの団体のhomepageがあって、毎年の卒業生の就職先をupしているのですが、それを見ると、音楽の最高学府である芸大ですらその現実なので、ましてや一般の音楽大学のいやんやがなの現実が見えて来ます。

それを実際に目にした人達は、その現実に、愕然として、その人自身が、余りにも思っていた現実とのgapに、驚いてしまう人達が多いのですが、私達のように、実際にその現場で生活を長くして来た人間としては、一般の人達のそのような思い込みは、realityがなくって、妄想に過ぎないので、結構、見ていて笑えるのですよ。もし、「proになるには、・・」という人が、そのhomepageを見て、自分の意見を更に周りに言えるとすれば、それは頑迷の世界ですよね。

だから、音大生の多くの人達は、日本で音楽を学ぶ事を諦めて、海外に留学をします。
山のあなたの空遠く・・か、隣の芝生は青い・・かどうかなのでしょうね。
しかし、憧れの留学を終えて、日本に帰って来たとしても、日本の音楽界の現実は厳しいものがあります。
と言う事で、日本の音楽の世界には、Classicをやっていては生きては行けない。という通説(定説)があります。
私に言わせれば、音楽の世界では、音楽を教える人も、学ぶ人達も、お嬢様、お坊ちゃまの集団であり、生活のための音楽を学ぶ事も教える事もないのですよ。
だから、「音楽は職業なのでは??」と私が言うと皆、ズッコケルのですよ。アハッ!

はっきり言って、proの道は、そういったacademismの延長線上にはないのです。

学校のacademicな勉強を何百年続けたとしても、それが職業になる事はないのだよ??
当たり前でしょう??
proを続けている人なら、皆分かる事なのだけど、親方日の丸どっぷりの人達には分からないだろうな〜あ??

斉藤先生達が未だ高校生の頃に、私の高校の時の同級生でproのorchestraのownerをやっている人に「オケに入団するかい??」と誘われたのだけど、先生達(当時は高校生ですよ?)は、「教室の先生が良い?」と言って、その申し出を断ってしまいました。

梨紗さんが高校生になった頃のお話なのですが、その私の同級生のownerの人も歳を取って、スポンサーになって、ownerを続ける事が辛くなって来たので、最後の機会と言う事で、私が、「高校を中退してproオケに入団するのなら、最後の機会なのだから入団させてあげるけれど・・」と、梨紗さんを誘ったのだけど、「高校生活も音楽大学の生活も全うしたい?」という事で、梨紗さんに、断られてしまいました。
もう、それから5年近く過ぎているので、私も、・・私の友人も、もう歳なので、そういった音楽の現場には力が及ばなくなってしまうので、当時は、「最後のchanceなのだよ?」と言う事は、しっかりと確認した上でのお話だったのですがね。
もし、彼女が将来「proのorchestraに入りたい」と考える事があるとすれば、勿体無い話ですよね。

・・っていう話をしていたら、「何故、proオケに入団するのに、高校を止めなければならないの??」と質問して来た人がいるので、それに答えるのは、バカバカしいのだけど、敢えて書いて起きます。
オケに入団をする・・という事は、「就職をする」と言う事なのだからですよ。
「就職をした人間が、同時に高校に通う」という事は有り得ないじゃあないの??
そこの勘違いも、音楽を趣味としてしか、見ていない証拠なのですよ。その水準に答えなければならない・・という事は、私に取っては、とても悲惨な現実です。

音大生に向かって質問してみてください。
「どうやればproになれる・・と思うのか??」って・・。
多分、その答えは、「技術を磨く事」と回答するはずです。

確かに、完璧に技術を磨いて、concoursには通るかも知れません。
しかし、concoursに入賞したから・・と言って、proになれる分けではないのですが、その現実を見ようとはしないのですよ。
つまり、音楽を勉強する学生の皆さん達は、夢を見ているのよね??
「見ている夢」を壊すような事を言っては、大人気ないよね~ぇ??
ここら辺迄にしましょうかね??
今日の愚痴は・・・アハッ!

今日は合宿中日の26日でした。
練習が終わって練習に入る迄の間のinterval(所謂、loss-time)を上級生が計って、time表に書き込んでいましたが、流石に、前の日のお説教が効いたのか、loss-timeは、昨日の30分ぐらいとは打って変わって、全部のintervalが、10分以内の、5分から3分ぐらいに収まっていました。
最初、自治会館に着いたばかりの時には、昨日、見ていなかった曲を3曲程練習していたので、pointが、やはりズレていて、そのcheckをしたのだけど、初心者には難しかったかも知れないネ??
八千代組+?の?にとってはね??

次の曲に入って、前日に練習のpointの説明をしていた曲だったので、ワリと練習は上手く行きました。
つまり、「練習をする」と言う事よりも、「練習の仕方を勉強する」という芦塚メトードに始終したのですよ。
この方法は、1曲毎には、とても時間が掛かるのですが、一度、理解出来ると、上達が早いので、結果的には、時短になります。ハイ!

でも、子供達への指導で、体を労って、安静にしていなかったので、毎日少しづつ、段々、痛みが酷くなって来ているようで、最悪、このまま冬休みは寝込んでしまうのかな??
そんな気がして来たぞな・・・??

「集中力と3分という時間の単位」
昔々、テレビのカップラーメンかの宣伝で「3分間待つのだよ?」とかいうコマーシャルがあった。コマーシャルは、15秒とか30秒、1分、3分とあって、私が子供達に時間の単位を教えるのに、利用させて貰った。
教室を開設した時に、子供達の集中力が45分ぐらいしか持たない事に気がついて、不思議に思ったのだが、それは、小学校が、子供達のトイレ・タイムのために、50分の授業をしていたからだ・・という説明を学校の先生からして貰った。
ちなみに、大学の時間の単位は100分である。
1時限は100分単位である。
しかし、音楽大学は基本、1単位60分である。
lesson時間が60分だからである。
この違いは時間という単位を身に付けるのに、結構、問題となる。100分という時間を集中するのは、極めて難しいからである。
ちなみついでに、演奏会の演奏時間は、short-concertoとlong-concertoとの時間に分かれる。short-concertoは基本1時間半にencore-programの15分を追加して、1時間45分、long-programでは、2時間に15分程度のencoreをプラスして、2時間15分の演奏時間になる。(以下は、演奏会のprogramの作り方⇒「芦塚先生の部屋」参照)

子供に「集中」という事を教えるのに、「時間」を体で体感し、把握出来るようにしなければならないのだが、それは、先ず、基本となる時間の概念を子供に作ってやらなければならない。
その目標が「3分間」だったのだよ。
オケ練習の時に子供達を後ろ向きに座らせて、目を瞑らせて、よ〜い、ドン??で3分経ったら、手を上げさせる。目を瞑っているので、周りの生徒達が手を上げたかどうかが分からない。早い子供では、1分半で手を上げる子供すら出てくる。
3分間というのは、殊の外、長いので、3分間の集中は、おいそれとは出来るものではない。

先ずは、短い時間の単位である、「15秒間」の集中から訓練を始める事にするのだ。

15秒が出来るようになったら、当然次は30秒という単位を習得するのだが、しかし、30秒の次は1分ではない。
あくまでも、段階的に、45秒なのだよ。
そこを飛ばしてはいけない。
と言う事で、徐々に頑張って、何とか子供達に3分間の集中を出来るようにさせるのだ。

オケ練習でも、私の指導下での集中が持続するのでは、子供の学習能力としての集中力としては弱い?
子供自身が自分の力で、集中出来ているのか?のcheckも必ず必要である。子供が自分でその集中力を発揮出来るようになった時に、その集中力は子供の絶大な能力となる。
だから、集中力の特訓は、オケ練習の最も、需要な要素となるのだよ。


子供達に「集中しろ??」と言って子供達が集中出来ると思っている指導者は、指導をやめた方が良い??



2017年12月19日

「挨拶と会釈」

「練習(lesson・lecture)時間についての把握」
オケ練習や室内楽の練習を子供達に指導していて、とても困る事があります。指導者の人ならば、皆さん経験済みだと思いますが、指導する内容が時間内に収まらない・・という事です。(勿論、その逆もあって、時間が余って、何を教えて良いのか困る事もあります。)
昔の私のlessonでは、lessonの時間はaboutなもの・・として規約等に書いていました。lessonの時間は、あくまで、生徒の勉強の度合いによって、受けられるlesson時間を決めていたのです。
だから、aboutなlesson時間という事で、lessonの金額は、指導の水準で、初級、中級、上級、超上級(所謂、pro-version)として、設定していました。
だから、lesson時間は、初初級が20分、初級30分、中級45分、上級1時間と、いう設定ではなく、生徒が勉強して来なければ、指導する内容が前回のlessonと全く同じというのならば、lessonは、ただ一度聴くだけの10分ぐらいで終わる場合もありますし、指導する事が多ければ、1時間よりも長くlessonをする場合もあった、という事でした。
しかし、こういった時間に拠らないlessonの仕方は、世界中のproの人達を育てる有名な先生達は、皆、一様に、時間時間が合って、無いようなlesson時間を取る先生達が殆どなのですよ。

一番良く聞く話なのですが、日本から留学して、憧れの先生に師事する事が出来た学生が、lessonを受けて、Pianoを弾き終わると、先生がニコニコして、「とても、良かったよ?」と褒めてくれて、お互いに顔を見合わせて、笑いあってそのlessonは終わりです。・・ホンの10分でlessonは終わってしまいます。
・・で、その生徒のlessonは、10分間で終わって、次の生徒のlessonが始まるのです。そして、多くの勤勉で真面目な日本の生徒達は、先生が何も指導をしてくれない事に悩む事になるのです。日本人の音楽の学生達は、先生が総て指導をしてくれる・・所謂、塾型の教育を受けて来たから、ヨーロッパ型の指導は受けた事がないからなのです。

日本の音楽大学では、その生徒のlesson時間にならないと、lessonの教室には、入れて貰えない事が普通なのですが、逆に外国の場合には、そのlesson時間の次の時間の生徒は、前の生徒のlessonを聴講するのが普通です。
聴講生という資格の生徒もいるぐらいなので、lessonを聴講するという事はヨーロッパの授業では当たり前の事なのだからです。
ただ、聴講し、見学して勉強する事は当然として、lessonを受ける場合は、前の生徒がちゃんと勉強してくれば、自分の時間が前の生徒に取られてしまって、見て貰えないcaseもあるし、その逆の場合で、前の生徒が余り勉強して来なかった場合には、前の生徒の時間を貰える事もあるのです。それがproとしての、lesson時間の感覚なのです。

私がドイツに留学中にも、Pianoの女の子(私よりも年上ですが)が、同様の被害にあって、(褒められて10分でlessonが終わってしまう・・という事が続いて・・)私の所に泣き付いて来た事があります。(その話も詳しくhomepageに書いてあるので、繰り返しになるのですが)ですから、私が日本に帰国する迄の半年間の間、その人の曲を下見して、先生への問題の提起の仕方や、解釈の質問等々を説明して、lessonに行かせた事があります。私の下見で普通にlessonが受けられるようになったのですが、日本のlessonではそういったlessonはないので、やはり、日本人には無理なlessonの形態なのでしょうね。

その話は、留学をする予定の私の生徒達にも、何時も、何度となく説明していたので、そういったヨーロッパ型のlessonの受け方には、問題はありませんでした。
自分の前の生徒が、褒められて、10分でlessonが終わった時に、その生徒の時間を貰って、自分の時間が、2倍、3倍になって、予習が大変だ・・という手紙を貰った事もあります。

こういった事はlessonではなく、室内楽やorchestraの練習の見学も同じなのです。日本で私のcelloの恩師の室内楽のlessonを聴講したいと思って、師匠に申し出たのですが、にべもなく断られてしまいました。理由は聞いていませんが、「大学の授業なので・・」というのがその理由だそうです。よく理解出来ないが・・??チェコフィルとノイマンさんが日本に来て、そのrehearsal を見学させて貰った事があります。(1stviolinの人が知り合いだったので、)日本のagentが、「聴きたいのなら、お金を払ってコンサートに来い?」と追い出されそうになったのですが、ノイマンさんが「私が招待するから」とagentに言って、客席の真ん中で練習を聴かせて貰った事があります。
友人がコルペチをやっているmilanoのオペラが日本に来た時に、友人はプレスの招待の日に私を呼んで来れました。(私は、演奏会を聴く事よりも練習を聴く事の方が好きだからです。色々と楽屋内が見れて、面白いのです。一般の人達が見れる事は絶対にないので、・・)
(昔は、教室の生徒達、小学生の子供達を引き連れて、proのorchestraの練習を見学に言った事があります。同級生がorchestraのownerだったからです。)

学校教育のように、きちんと時間を決めてlessonをする・・というのは、how-toの授業であり、amateurのlessonです。
決まり決まったノウハウを提供するだけの授業になります。
学校教育と同様に、先生は、生徒に対して、情報を提供して、生徒が、それを勉強して、自分の物にするか否かは、本人の努力次第という、所謂、塾的な考え方になります。

それに対して、職業としてのlessonでは、その曲を引き熟すための、normaがあって、何が何でもその曲を演奏するためには、その技術を習得しなければなりません。
職人としてのお金を稼ぐための、proとしての勉強なのですから、当然、勉強とは、本人が出来るか否かが総てであって、その指導に「時間」と言うものは存在しないのです。
勉強しなければどうなるの??とか、勉強しても出来なければどうするの??という仮定は存在しません。出来ない物は売れないからです。
出来るようにしない弟子の場合には、所詮proには成れないので、その世界には居れなくなるだけなのですよ。

出来なければ、教えても無駄なのですから、出来るか否かだけが、lessonのpointになって、指導の総てになるのですよ。

教室を作ったばかりの頃、生徒が「concoursに出たい!」と言って来たのですが、そのconcoursの予選を通過する水準に到達していないので、練習が間に合わないので、私が好意的に、lessonの時間を延長してlessonをしていたら、その子のお母さんが、家に電話を掛けて「lesson、ま〜だ、終わんないのよね?」と、これ見よがしに言っていました。
lessonの時間が伸びたのは、私の好意だったのですが、(延長料金も取らないで、)その親に取っては、その好意は、有難迷惑だったようです。
勿論、そういう意識で、concoursに通る事はありません。

concoursは、将来音楽の道に進んで、proになる事を夢見ている人達の集まる所だからです。
だから、まかり間違えても、それぐらいの意識でconcoursに通る事はないのです。
concoursで演奏する音楽の、水準、所謂、Niveauが総てなのです。「concoursを受けて見たい」と思ったら、そのconcoursの予選と本選を先ず、見学してそれから、受けるか否かを決めるべきなのです。
近頃は、大学の入試でも、学校を見学に行って綺麗だったから・・と、進学を決める人がいて、困ってしまいます。
芸大なんかでも、その年の卒業生がどういう所に就職したから、留学したか、一般の企業に入ったのか・・という事を、細かく分析して公表しています。それを見て、芸大と音楽界との関係を判断すべきなのですが、芸大生でも、将来を具体的に見てはいないようですよね。
発表会でお喋りをしていた時に、芸大生である春暉君は、その現実をあからさまに批判していたようですがね。

普通ならば、『この出来では、concoursには、合格しないよね??練習が間に合わないよね??』と先生が言ったら、生徒や父兄の方から「すみません??追加lessonをしてください。」というのが一般の常識なのでがね。
ましてや、concoursを受ける人で、lesson時間の事や、追加lessonの料金の事を気にする人はいません。
concoursはその人の履歴なのだから、幾ら時間が掛かって、費用が掛かってもその生徒の一生に必要な必要経費になるからです。
勿論、音楽に進まない人には無駄な経費だから、それを「高い??」と感じるのは当たり前で、将来に音楽を目指さない人は、concoursを受けるべきではないのですよ。concoursというのは「proになりたい」という人達の居場所なのでね。
(但し、concoursと言っても、ここで言っているconcoursのお話は、全国大会迄の勝ち抜きの日本で、2つ、3つしかない特別なconcoursのお話ですよ。
小さな地方のconcoursや、企業のconcoursとは、全く、別の種類のconcoursの話なのですよ。同じconcoursという名前でも、全く別の世界なのですから、お間違いのないように??)

lesson時間のお話に戻って、私が日本に帰国して、音楽大学で生徒達を指導していた頃は、最初は、そう言ったlessonの方法をしていたのですが、大学からも「時間を守るように」・・と、文句を言われたので、それ以降は、事務的に時間を守って、事務的に指導するようになりました。
でも、学校のlesson時間が足りないので、連弾の練習や2台のPianoの勉強をするのに、前の生徒の5分の時間(歳下の生徒)と次の生徒(上級の生徒)の時間をダブらせる事で、20分のensemble教育と20分の個人lessonという時間を捻出しました。(苦肉の策ですがね。)
「時間を守る」と言う事は、私も「定時に帰れる」と言う事なので、本当は「吝か・・ではない」のですがね。

教室を開いてからも、オケ練習や室内楽の練習では、子供達のお迎え等があるので、終わりの時間が決まっているので、同じmemberの曲を一絡げにして、その時間の中で、配分するようにしています。本来的には、その時間しか指導するchanceはないのだから、本当に子供達が自分一人で勉強出来る所迄は、指導したい・・とは思うのですがね。そこは音楽に対する価値の問題になるので・・如何ともし難いものがあります。

出来ない技術は常に同じなので、4,5曲を纏めてlessonしても大丈夫なのです。一つの技術が出来るようになると、総ての曲が弾けるようになるからです。
その逆は、その技術がmaster出来ないと、総ての曲は弾けない・・という事になります。だから、1曲、1曲を時間通りに練習をして、総ての曲が舌足らずのlesson、練習になると、何時まで経っても、水準に達しない事になるからです。それぞれの曲を時間で練習するのではなく、それぞれの曲の技術を纏めてlessonをする・・という方法、それが、生徒をより上手くするためのone-point-lessonの極意なのですよ。
ここまでが「前振り」です。

「挨拶と会釈」
普段のオケ練習ではなく、rehearsalには、rehearsal としての課題があります。
演奏だけではなく、舞台での演奏する場所の「位置決め」や、「出入り」の練習が等々、普段の練習では出来ない事がrehearsal の練習のmainなので、普段のlecture-lessonの延長線上としての、「通し弾き」・・ではなくて、もっと別の「演奏会の舞台マナー」等の、普段出来ない事をmainに指導をしたいのですが、子供達の場合には、どうしても、イタズラに曲を通すだけのrehearsal で、時間を追われてしまって、stage-mannersの指導すらの基本的な事が出来なくなっていて、自治会館コンサートや八千代のコンサートで、指導不足を実感してしまいました。
音楽大学等では、そう言った舞台マナーは教えません。
・・というか、定形の舞台マナーがある分けではなく、色々なgenreのそれぞれのマナーがあるだけなので、先生達は教えられないのですよ。

私的には、rehearsal では、一回通しの練習をしなくても、マナーの勉強を優先して指導すべきと考えるのですがね。

教室では、lessonの時も、オケ練習の時も、礼に始まって礼に終わる・・という風に指導していますが、音楽大学でlessonの時に教室で先生に挨拶をしたら、厳しく怒られた生徒が何人もいました。

また、生徒が挨拶をしても、殆どの先生はその挨拶を返す事はありません。
何故なら先生は偉いから、挨拶を受けるのは当たり前でも、返す必要はないからなのだそうです。
私達の教室のように、先生が率先して挨拶をして、生徒が挨拶を返す事は音楽教室であっても、ない事なのです。
これは私達の教室の独自のマナーなのですよ。

他所の教室では発表会の時に挨拶を忘れてしまう生徒が非常に多いのですが、それは「挨拶に始まって・・」という普段の躾が出来ていないからなのです。
普段のlessonから、ちゃんと挨拶をしていれば、舞台で挨拶を忘れる事は決してありません。

子供のorchestraを指導している先生が、教室の発表会を見学に来て、「幾つかの驚いた事」を上げて、コツを私に尋ねて、質問をして帰りましたが、その中で、「orchestraの挨拶がどうして揃うのか??」という質問もありました。
あんまり意識はしていないのだけど、それも不思議な事だそうなのですよ。
普段のオケ練習や室内楽の練習の時に挨拶をしていれば、挨拶のtimingが合わない事はないのだけど、それが合わない・・という事は、普段の挨拶が多分、お座成りでいい加減なのでしょうね。勿論、普段のオケ練習の時にも、よく舞台を想定して、指揮者がorchestraに対して後ろを向いて、挨拶をする練習をよくします。指揮者の後ろ姿のeinsatzで、挨拶をする練習なのです。

また、もう一つの注意は、「舞台の挨拶」と「舞台上の会釈」は意味が違います。
曲の途中(例えばT楽章とU楽章の間)で、拍手が来た時に、挨拶をすると、音楽を寸断してしまいます。
だけど、だからと言って・・挨拶もしないのでは、お客様から見ると、感じが悪いのですよ。
・・で、そこは、挨拶ではなくって、「会釈を返す」・・というマナーが必要なのです。

「会釈」はorchestra全員でする事はありません。
オケ全員ならば、挨拶になるからです。
所謂、カーテン・コールです。
「会釈」は、周りの人達が次の楽章を準備している時に、solisteだけが一人だけ返します。
他の人達は動いていて構わないのです。

勿論、基本的には、「会釈」の指示も指揮者が出しますが、指揮者が忙しい時には、solisteが単独に会釈を返す事もあります。
それはorchestraの進行が優先するので、これはあくまでも、ケース・バイ・ケースなのです。
そこは舞台に慣れている事が必要で、solisteが、舞台上でも客席が見えているかどうかなのです。

オケ練習で、「曲と曲の途中で拍手が来た時には、会釈をするように??」と、子供達に言うのは、簡単だとしても、実際の舞台で、それが出来るか否か・・は難しいのですよ。
それがrehearsalでの舞台mannersの課題なのですよ。

今回も、自治会館コンサートや八千代のコンサートでは、対外出演なので、一般公開と言う事なので、そこの所の指導をしようとしたのですが、rehearsal の「時間がない」・・という理由で、ハネられてしまいました。
当然、自治会館コンサートでも、八千代のコンサートでも、その「会釈」は、口頭では、本番中にも説明したのですが、ちゃんとは出来ていないので、今回の反省の一番のpointにして、次回には必ず「会釈の練習」の時間を設ける事にします。
どうも、Facebookの調子が悪いので、後日、書く事にします。



2017年12月18日

昨日は12月17日クリスマス会の前の最後の練習でした。
「清しこの夜」の練習の時に、小学生の子供達に、この曲のimageを説明しようとして、「クリスマスって、どういう意味か知っているのかい?」と質問をしたら、「presentを貰う日」とか、「ケーキを食べてご馳走を食べに行く日」とかで、本来のNoelの意味を知っている生徒は一人もいませんでした。日本では、America同様に、完全に企業のイベントになってしまっているからね??
勿論、今回のクリスマス会のthema曲のSaint-Saensの「動物の謝肉祭」の「謝肉祭」の意味なんて知る由もありませんよね??
ヨーロッパのクリスマス・・と言っても、ドイツのクリスマスは、もう少し落ち着いた、宗教的な行事なのですがね。日本のChristmasはアメリカナイズ化された企業が中心の行事なので、本来の意味すら無くなってしまっています。

ヘルマン・プライのドイツのクリスマスのvideoはとても素敵で、よく子供達へ参考にさせているのですが、何せ、video-tapeの時代なので、映像が酷過ぎるので、今は、中々見せられません。
日本の子供達は、キリストの意味も知らないようなので、説明するのに困ってしまいました。
勿論、私もキリスト教の信者ではないのですが、音楽を勉強する場合には、cantataや missa(英mass)の勉強をするためにも、或る程度の知識は必要なのですよ。
ちなみに、英語のmass、所謂、Christmasはキリストのミサ(秘跡)の意味になるのかな??
いずれにしても、キリストが誕生したお祝いのmissaなのですが、それが全く伝えられていないのですよ。
清し=聖なる・・という意味も分かっていない。
何故、「清し」なのかを説明するのに一苦労・・でした。
これは学校か、家庭の問題よ??




2017年12月24日

「クリスマス会と合宿について」

クリスマス会の最後に、うっかりと、「冬休みが終わったら合いましょう!」と挨拶をしてしまいましたが、何と、明日からは冬の合宿です。
(実は、私の気分の中では、もう、合宿は終わってクリスマス会も終わって、教室の休みに入る感覚になっていました。)
その理由は、昔々は、合宿が先にあって、その纏めに、クリスマス会のおさらい会があったので、「クリスマス会=冬の合宿の纏め」で、本当に、クリスマス会が終わったら、「冬休みが終わったら、来年また、逢いましょう??」という挨拶は正しかったのです。

でも、近年は意識の差で、「Christmasやイブは家族と祝いたい」という事を希望される家族が増えて来ました。
しかし、学校が休みに入る日にちは、動かせないので、合宿とクリスマス会のrotationを変更して、Christmasやイブを避けて、家庭でChristmasを出来るように、日程を組むと、クリスマス会と合宿は、今回のように、クリスマス会が先になって、合宿が後になる・・という変速的なrotationになってしまいます。

以前は、クリスマス会のおさらい会に向けての最後の追い込みの練習を、合宿で先輩達が見てくれていたのですが、新しいrotationでは、いきなり、クリスマス会になってしまうので、以前に比べて、クリスマス会の演奏の出来はどうしても、落ちてしまいます。

そもそも、合宿を夏休みと冬休みにするようになった経緯には、大きく二つの経緯が有りました。
昔は遠方の地方の生徒が結構居て、videolesson等で教室のlessonを受けていたので、先生達や生徒達と身近に触れ合う機会がなく、その生徒達のために、3月末から4月に掛けての学期休みや、ゴールデンウイーク等を利用して、千葉にお泊りをさせて、先生達が直接、lessonをしていました。
勿論、折角、遠くから教室に来る分けなので、lessonだけでは、つまらないし、どうしても「video-lesson」だけでは、音楽を共に学ぶお友達も出来ないので、先輩達を教室に泊まらせて、地方の生徒の勉強を手伝わせる等々の面倒を見させていました。
それを見ていた他の生徒達も、普段、普通にlessonを受けられているのにも関わらず、「良いなあ??私もお泊りして勉強したいな??」という申し出が多くでて、先生達も、遂に生徒の願望に負けて、生徒達合同の合宿を始めました。

それは合宿を始める事になった経緯なのですが、合宿には、芦塚メトードに取って重要な、もう一つ、別の意味があります。

それは、生徒一人ひとりの家庭での勉強の仕方や、勉強に対する姿勢等々、普段の練習の仕方等々、普段のlessonでは見る事の出来ない、そういった生徒達の日常を具体的に知る事が出来ると言う事なのです。

私の場合には、生徒指導は慣れているし、経験も豊富なので、そう言った生徒の日常の行動を、敢えて、見る事がなくても、一人ひとりのpointは分かるので、合宿をする必要はないのですが、生徒の思いも掛けぬ行動を見る事もあって、驚く指導者達も多いし、子供達が話てくれる、家庭での考え方や問題点の確認も出来て、指導には有意義です。

そういった事をより詳しく知る事は、生徒を正しく導く上でcurriculumの作成に大変、助けになります。
今、現実に何が欠けているのか、将来何を習得しなければならないのかが、よく分かります。

殆どの教育では、与えられたcurriculumだけを指導するのが、先生の勤めであり、生徒の情緒や心の指導は、「余計なお世話」とされる近現代の世相です。
しかし、本当に、「子供の勉強を伸ばそう」と思うのならば、子供達が伸びる、成長する・・ような、ものの考え方をしなければなりません。
今の世は、超、現実主義的な子供達が多く、その即物的なものの考え方が毎日のように、テレビ等を賑わしています。

戦後総てを失った日本は、世界の頂点を目指して頑張って来ました。その頂点が所謂、バブル期なのです。自然現象は総て、同じ数式に当て嵌まります。人口の増加率も、経済も、音楽のpitchや音量に関しても総てなのです。

長い長い努力の結果、頂点を迎えると、非常に早い緩慢期を迎えます。それは、振り出しに戻るのですが、多くの人達はバブルが永遠に続くという妄想に囚われています。日本の繁栄は疾うの昔に終わってしまったのに、未だに、日本は国際的に優れた国だと思い込んでいます。来年の総予算は良いのだけど、その借金は誰が払うのかね??その頃は私はいないだろうから、それでも良いけれどね???