単純にpitchと辞書で引くと驚くほど色々な意味が出てくる。ボートの人の一分間にオールを漕ぐストロークの回数を意味するピッチ、野球の人の打者に向かって球を投げることを意味するピッチ(ピッチング)、はたまた石油や木炭を蒸留した後に出来る固形の物質もピッチという。山登りなどで坂道の傾斜を表すピッチもある。一般的なのは作業能率を表すための言葉かもしれない。しかし、我々音楽家がピッチと言った場合には音の高低を表す。「ピッチが高い。」とか「低い。」とかだ。

リコーダーなどを買い求めに行くと、よくピッチが違うことがある。リコーダーの場合には、基本的には440サイクルの標準ピッチと435サイクルのバロックピッチが殆どだ。

家庭のピアノを調律する時、調律師から「いくつにしますか?」と聞かれることがある。こちらが何も希望を出さなければ、殆どの調律師は440サイクルで調律するのではないだろうか。我々が文化会館などのコンサート・ホールで発表会をする時、会場のピアノにピッチを合わせてヴァイオリンやチェロなどをチュウニングするのだが、教育会館などの特殊な所を除いて、殆どの会場のピアノは442〜443に調律されている。(教育会館などのように学校が使用するという前提に立っているところは、440の標準ピッチである。)市販の木琴や鉄琴などの楽器の場合は440サイクルと442サイクルの楽器が販売されている。

440サイクルは国際標準高度とされているが、実際に(オーケストラなどの)演奏会では443サイクルが一番多い。ということで私達の教室のピアノも443サイクルの演奏会高度で調律をお願いしている。というわけで私達の教室の生徒サン達も443で調律している。

「たかが1サイクルや2サイクル変わった所で何が変わるんだ。」と思われるかもしれないが、これが(ピッチが変わると)全く(音楽が)別物になっていくのだから始末に悪い。

梅雨の時期などに子供達とオケ練習をしている時、空気が重たくて(雨が降りそうで降らないどうしようもない天気で)子供達の音楽の乗りも最悪な時、「じゃあ、今日は気分が乗らないから444でやろう。」といってチュウニングをしなおすと子供達も見違えるように生き生きとなってくる。

じゃあ、最初から444でやれば問題は無いように思いがちであるが残念ながらそうは行かない。やっぱり443は443であって、444ではないのである。

楽器の中で、ヴァイオリンなどの楽器の場合にはフレットのようなものがついていないので、自由に(少し高目とか、低めにとか)ピッチが取れそうなものであるがそうでもない。

あるとき、オケマンに頼まれて彼のヴァイオリンを修理している間私のヴァイオリンを貸したことがある。オケマンであるに関わらず、彼の標準高度は440であった。つまり子供の頃から440で習ってきたわけだ。

一月経って私のヴァイオリンが帰ってきたとき、ヴァイオリンが全く鳴らなくなっている事に驚いてしまった。楽器が440の時に響くようになってしまったのだ。指は無意識に一番響く場所を求めてしまう。しかし耳は正しい高度を要求する。大変なことになってしまった。又一から楽器を調教しなおしだ。何年越しでせっかく響くようになっていたので少なからずショックであった。

楽器は絶対に他人に貸すものではないということを改めて実感した。

ピッチに関しては音大時代に結構興味を持って調べたことがある。当時としては最先端の資料を集めてまとめたのだが、結局1980年代に差しかかってバロック時代の楽器やガット弦などが再現されるようになって、それまでの常識的なことが覆されて、私の勉強してきた知識は何の役にも立たなくなってしまった。(小中高校で学んできた歴史上の知識が何の役にも立たなくなったように)

私の一貫した理論である「様式は時代の技術力で決定される。」という法則通り、当時の技術の再現が正しい知識を我々に与える。

バロック時代には殆ど村々の単位でピッチが異なっていた。それは村の教会のパイプオルガンが、村にとって一番権威のある物であったからである。つまり音楽を提供していたのは殆どの場合教会である。貴族もと思われるかもしれないが貴族が村民に音楽を提供すると言う事は、まだ貴族階級の力が強く、17世紀や18世紀までは例外的にしかおこなわれていなかった。ジプシーや村祭りで演奏される以外は毎週のゴッテスディンストとして提供される音楽が唯一の村民の娯楽であった。というわけで当然、村で作られる金管楽器はパイプオルガンのピッチによって決定されていたのだ。金管係の楽器は高音の方が響きが良い。だからバロック時代はピッチが低かった、というのは迷信であって、当時448というとてつもない高いピッチを持つ町もあったことは良く知られている。

それに対して弦楽器は切れやすいガット弦に悩まされていたことは事実である。だからガンバやリュウトなどの楽器の場合「その日に一番良く鳴るピッチにチュウニングする」というのは全く正しい。当然ガット弦は(今でも)高価なわけだから、なるべく弦を切らないように演奏するにはある程度低いピッチで演奏した方がよい。しかし、弦楽器もあまり低くすると鳴りが悪くなる。ある程度の高度は必要である。

もう一つのバロックピッチである415サイクルであるが、これは現代になって、チェンバロなどがオーケストラなどで使用されるようになって、モダンピッチとバロックピッチの弾き分けの必要が生まれた。しかし、ヴァイオリンにしてもチェンバロにしても曲ごとにピッチを変えていると弦のみならず、楽器にとって非常に良くない。(最悪の場合、楽器が壊れてしまう)ということで鍵盤をスライドさせることによってバロックピッチを持ってこようということで出来た便宜上のピッチだ。つまりA(ラの音)を440で調律すると、鍵盤を半音下げてGis(ソ♯の音)の所にAの鍵盤をもっていくと、Aの音は当然415サイクルになるということだ。(私達の教室のように)Aを443でチュウニングする場合は、バロックピッチでは418サイクルになると言う事です。当然スライド鍵盤は電子楽器ではトランスポーズというキーで全く同じように操作できます。

私達が実際に演奏活動をして感じた結果では、バロック・ヴァイオリンでも、415では楽器の鳴りが少し悪いようで、430とかの方が楽器が良く鳴るようです。でも、一台一台楽器が異なりますので良く響くピッチも一台ずつ変わってしまいます。