もしも、あなたが、まかり間違えて「Cembalistになりたい!」と思った時の話です。

芦塚先生自宅の二段鍵盤のCembalo Goujon model(グジョン・モデル)

 


もしも、音楽家の卵達がCembaloという楽器に憧れを抱いて、その楽器に興味を持ったとしても、実際にCembaloに触れる機会が持てる・・というチャンスを得る事は、かなり難しいだろう。

それにCembaloの曲を勉強しようと思ったとしたも、Cembaloのlessonをしている教室は(都心は兎も角として)殆ど、見つける事が出来ないだろうと思う。

折角、Cembaloという楽器に憧れて、興味を持って、まかり間違えて、
「proのCembalistになりたい」と思ったとしても、「じゃあ、実際には何を勉強してよいのか分からない」し、又、「誰に・・」、或いは、「何処に、相談してよいのか・・も、分からない」・・という事で、結局の処、暗中模索しているうちに、いつの間にか「Cembalistになる」・・という夢や、baroque音楽への憧れを諦めて、縁遠くなってしまうのが現実のようだ。

 

あなたが、幸運にも、Cembalo科を持っている音楽大学に入学出来たとして、しかも更に、幸運にもCembalo科(或いはCembalo部)にめでたく入る事が出来た・・・としても、そこで受講するCembaloのlessonは、子供の時の音楽教室でのPianoのlessonと全く同じlessonであり、Bachやせいぜいrococoの作曲家たちの作品を、Cembaloの弾き方ではなくって、まるであたかもピアノのlessonの延長のように、しかも、ただ単に「譜面に忠実に演奏する」・・というlessonに終始するであろう。

「えっ?!それでは駄目なの?」

「勿論、それではダメなのだよ!」
「それをCembaloのlessonとは言わないのだよな〜ぁ。」

日本人には、CembaloやOrganに対しての正しいimage(理解や知識)がない。
日本人にとってのCembaloは、鍵盤楽器としてのPianoやpipeorgan等の「一派一絡げ」のimageしか、持ち合わせてはいないのだよ。
それでは、あまりにも乱暴過ぎる。


繰り返し述べるが、残念ながらCembaloには
Pianoとはtouchからして、基本的には違うのだよ。それに、奏法もPianoとは根本的に異なるし、また、色々なCembalo特有の奏法があり、Bachの簡単な曲の演奏でも、そういったCembalo特有の演奏法で演奏しなければならないのです。
ただ、同じ鍵盤楽器だからと言って、Pianoと同じlessonをするような先生に師事したとしても、その延長線上に、Cembalistの夢は有り得ないのだよ。
それは、当たり前の事なのだが、音大生は師匠を尊敬する余り、正しく評価し、認識判断する力を失っている。
尤も、(日本の音楽界と同じ根幹をなす)儒教の世界では、師匠を批判し、質問をぶつけて行く事等、絶対的に有り得ない世界なのだから、正しい勉強法を分からないのは、当たり前かもしれない。
「井の中の蛙、大海を知らず」なのだよな。
日本の音楽界が世界の音楽界と同じだと信じて疑わない。
「信じる者は、救われない!のだよ。


Cembalo特有の色々な奏法について
音楽大学を目指して、日々是精進する若者達の必須の教材であるBachのinventionは、また、驚く程、誤った弾き方をされている。
(これは巷の音楽教室や家庭の主婦達が指導するhomelessonの話をしている分けではない。某国立音楽大学の教授達の生徒指導の例を言っているのだよ。)

inventionに書かれているtrillerにしても、声部の交差の奏法にしても、無知蒙昧な事甚だしい。Bach inventionとsinfoniaへの覚書
(外部linkです。「芦塚先生のお部屋」⇒「楽典のお話」⇒Bach・・・)

それを一々上げていては、それだけでこのPageが終わってしまう。
という事で、それは、他のPageに任せて、教室で子供の頃から、Cembaloに接して、学んで来るというラッキーな特別な例外を除いて、(但し、教室の生徒達は、Cembaloを弾く事も、Cembaloの奏法を学ぶ事も、有り難いとも、凄い事だとも、思っていないのだがね。)大人になって、(音大生になって)Cembalo奏法のintroを学べるように、「Bachの12の小プレリュード」に依るCembalo奏法の手引という冊子を作って、Cembaloの奏法を研究したい人達へのadviceにしている。
実際のCembaloの奏法のlecturelessonは、そういった初歩の段階がclear出来てから、下の次のstepが始まるのだよ。


指導manual F・Couperin 修道尼モニカ
教室で指導している子供達の初歩のgradeのBurgmuller等を卒業した生徒達の卒業課題の曲です。この時点でかなり高度なCembalo奏法がlectureされています。


ornamentについて

baroque音楽の殆どの緩徐楽章の曲は、音符は大まかな(raf・layoutのようなもので、)大きなあらすじが書かれているに過ぎません。
当時の演奏家達は、その音符が示す道標に従って、自分の趣味で、自分自身の演奏をしました。


例えば、HandelのCembaloの曲のsarabandeのようなゆっくりとした曲を演奏する事は、余りにも音が単純過ぎて、演奏する上では身がもたない!!
しかし、即興演奏ではなくても、曲に装飾を入れるだけでも、曲のimageは全く別の曲のように、見違えるように、素晴らしい曲に変わる。
次の楽譜は、finaleではなく、手書きの譜面だが、中学生の生徒が、自分の演奏のために、ornamentを加えた楽譜である。

(Handel 組曲 第七番 ト短調 sarabande 芦塚音楽教室 生徒作品


つい先日(2015年10月)、即興についての論文をnetsurfingしていたのだが、即興についての討論をしているblogで、「即興は天からの贈り物(gift)であり、勉強で何とかなるものではない。」という話で結ばれていた。私の事をべた褒めしているblogでもあったので、批判をするのには忍びないのだが、Cembaloを学びたい若者達にとっては、その結論は致命的な結論なので、敢えて、批判をする事にする。

私に取って、・・というか、教室の生徒達にとっては、即興を学ぶ事はそんなに難しい事ではない。
それは、baroqueの音楽を始めて学ぶ時に、始めて遭遇する未知の記号(trillerやmordent、或いは、prall=trillerや、schleifer等)の意味を説明するからである。

つまり、同じmordentであったとしても、強拍に付くmordentは素早くaccent気味に演奏しなければならないし、phraseの終わりに出てくるmordentは、弱拍を表すために、優しくゆっくり目に演奏しなければならないのです。
phraseの頂点になるpointは、その音を強調するために、mordentをダブルで掛けたりします。

或いは、auftakt等で、前の音を次の音に繋げて演奏したい場合には、glissandoによく似たlegatissimoの奏法が有りますが、Cembaloの場合には、そういった音と音を繋ぎたい場合にはschleiferを使います。


Bachは、即興を自分の子供達に教える時に、まず、ornamentを教えた。
「Wilhelm Friedemann Bachのための練習帳」からAppicatio
Friedemannが始めてのCembaloのlessonを受ける時にBachが息子に書き与えた曲である。何と言うlevelの高さだ!!Bachの指導力は凄い!!

そういった初期の段階での指導やlectureに関しては、日本人のPianoの先生達のornamentの知識は、信じられない程無知(kinderei)である・・と言える。

mordentにしても、trillerにしても、同じbeatで(しかも、非常に乱暴に速く)演奏する。
言語道断だ!!音楽はその前に、美しくなければならないのだよ。
一概に日本人がPianoを弾く時には、装飾音は鋭く汚く演奏される。
私が他所の子供達の弾く曲を聴いている時に、装飾音が出てくるとびっくりしゃっくりで、笑ってしまう。一度も美しく装飾音を演奏する教室の生徒(音大生を含めて)に出会った事はない。(断言!!)

まずはmordentの弾き方であるが・・・

Bachのinventionに限らず、全てのbaroque時代の曲では、弱拍を表すゆっくりと奏されるmordentと、強いaccentを表す早いmordentがあるのだ。

また、ある時には、inventionのtrillerを3連音で演奏させていたら、音楽大学出身のお母様が
「trillerを3連音で弾く事は有りません!」と烈火の如く怒り捲くって食ってかかられて、凄い剣幕であった。
そのお母様の音楽大学の先生から、そういう風に習ったのらしい。

しかし、trillerには、勿論、ゆっくりや速く、以外にも、crescendoを表す、段々ゆっくりから、徐々に速くして行くtrillerや、decrescendoを表す速いtrillから徐々にゆっくりして行くtrillerもあるのだよ。
勿論、crescendoとdecrescendoが合体した、所謂、膨らましを表すtrillerすらあるのだ。
ヨーロッパの名Cembalistと呼ばれる人達のinventionの演奏を聴いて見ると良い。
私の言っている事を、ちゃんと守って演奏しているよ。

Bachが自分の息子であるWilhelm Friedemann Bachに書いてあげた装飾音の一覧表が、こんにちの音楽家達の座右の銘になって、絶対服従になっているのだろうが、でも、Bachは3歳、5歳の息子達や、音楽が上手くない2番めの奥さんに対して、Cembalo奏法の手ほどきとして、一覧表を書いたに過ぎないのだよ。
音大生にもなって、或いは音楽大学の教授にもなって、3歳の息子のlectureのための一覧表を使うかね??
結論であった。

そういった自分に無関係な事で、頭に来ていたら、某音楽大学の教授がまたまたとんでもない指導をしているのに、遭遇した。
その先生が、homelessonで、中学生ぐらいの女の子を指導しているのを、見たのだが、inventionのW番の29小節目の左手のtrillを何とfa#で弾かせているのだよ。
確かに、私の持っている大昔の楽譜に、Fa#で弾くように示唆している楽譜は持っている。しかし、19世紀の楽譜だよ!
ありえへんわ!!

先生に質問したら、(私は弟子でも、学生でもないので、質問しても良いのです。それに、これは言いたくないのだけど、私の方が歳上だしね。)
「右手の旋律が旋律的短音階で、上行形も下行形もFa#なのだから、左手のtrillがFa?と言う事は有り得ないでしょう??」と、自信満々に答えられてしまったので、何も言えなくなってしまったのですよ。
この先生は、Pianoの教授をする前に、先ず楽典を勉強し直さないと、いくら説明しても無理!!

これが教室の中学生の生徒なら、私が
「Miの音は属音(dominante)の音なのだから、Fa#は有り得ないでしょう??」と言うだけで、分かってくれます。
そもそもtrillの上の音が非和声音であると言う事自体、有り得へんのだからね。
そもそもBachの音楽の場合には、右手と左手で、fa#とFa?が同時に鳴って、音がぶつかるのなんて、ザラなのですがね。

装飾音のお話を長々とするのは、baroqueの音楽を演奏する上で、その音の表現に欠かせないものがornamentだからです。
Cembaloは、Pianoのように音のnuanceを弾き分ける事が出来ません。
Clavichordのように、vibratoも出来ないし、melodieの最後の音を弱く弾く事も出来ません。
強調したい音をaccentで強く弾く事も出来ないのです。
しかし、そういった鍵盤上で演奏するnuanceを、Cembaloではornamentで全て表現する事が、出来るのです。
そのために正しいornamentの知識と曲の解釈をする楽典力が必要になります。
高校生の女の子が、急遽、音楽大学に進学を希望して来たので、楽器の本来の演奏法を指導するために、baroqueviolinを購入させました。
所謂、period奏法をlectureするためにです。

勿論、baroque音楽をperiod奏法で学ぶためには、即興演奏の勉強もしなければならないのですが、しかし、曲の本来のarticulationをornamentで付けるだけで、即興は必要ないぐらいに、baroque風に仕上がってしまいます。

実際に、baroqueの演奏では、その殆どがornamentで済んでしまうという事をlectureするために、Hennry purcellのtriosonateのChacony gという曲を題材にして、一切即興を使用しないで、melodieのarticulationに、機械的に単純にornamentを付けて演奏をしたら・・・という課題で、baroqueのtriosonateのprogramを練習しました。
発表会は、15年の10月に終演しているのですが、videoを業者に未だ依頼していないので、生音の動画が有りません。
手に入り次第、発表会の動画に変更しようと思います。
余り、computerの演奏は好きではないので・・・。


このようなオーナメント
(装飾)や即興演奏の技術を学ばねば正しいバロックの演奏は有り得ない


即興について

もう一つ例を見てみよう。
この曲は、私が未だ音楽大学の学生であった時代に、Cembaloを演奏するために、書いたPreludio con Fugaとなっていますが、実際にはfantasia und fugaとして、知られている曲で、その曲のfantasiaの部分のornamentとImprovisationであります。
原曲のfantasiaの部分の譜面は次のようになります。
和音が10小節間書かれているだけなのですが、しかし、arpeggioで和音を弾くだけで、お茶を濁してはいけません。
その和音の指示に従って、大体、次のfugaと同じか、それに近い長さのImprovisationをしなければならないのです。
という事で、音楽大学に入学したばかりの頃の作品で、習作なのですが、取り敢えず、掲載しておきます。
(このページは古いhomepagebuilderで作られていて、finaleもMacのG4とかの古いversionのfinaleで、取り敢えずhomepageに掲載する分だけを、finaleに入力して、参考のために、音声も入れて起きました。

今回、homepageをrenewalするために、元もfinaleの原稿を探したのですが、自宅のパソコンにはこの曲が入っていませんでした。
(昔は私は江古田の教室に住んでいて、教室の事務所のパソコンで仕事をしていたので、多分、事務所のパソコンには私のfileは残っているのかもしれません。
しかし、私が学生であった頃の手書きの譜面は残っていたので、「探すよりも、作った方が早いや!!」という事で、急遽、昨夜の今日(昨夜は、Vivaldiのh mollのcelloconcertoの3楽章の入力を終わったばかり・・・)なのですが、朝から頑張って作り上げてしまいました。

バッハ 前奏曲とフーガ より前奏曲






fugaは、原曲のままで、何の細工もしていないので、finaleに入力するのはしていません。
原譜を参考にしてください。

私のCembaloとの出会い
私のCembaloとの出会いは、私が高校生の時に、一枚のレコードに巡り合った事によります。
それは、Heiller, Anton(アントン・ハイラー)の演奏するHandelのharpsichord組曲に巡り合って、それが私を音楽の道に進ませた切っ掛けとなった、曲であり、非常に優れた感動的な演奏でも有りました。
Heiller, Antonの演奏は、卓越した技術だけではなく、優れたImprovisationにも現れています。
Heiller, Antonの優れたImprovisationに私も触発されて、私も試みてみたBachのfantasiaのRealisation譜なのです。

このImprovisationの楽譜を作ったのは、私が音楽大学に入学したすぐの頃で下。
当時は、私の母校には、Cembalo科がなくって、Cembaloの先生と、結託して大学にCembalo科を作る事を始めました。勿論、その理由は私がCembalo科にも所属するために、・・・なのです。
Cembalo科の生徒の試験問題も私が作って、私が採点したので、アハハ!ですがね??


baroque時代には即興演奏ではなく、即興の楽章もあった。

先程も同じ話を書きましたが、Bachの時代には、殆んどの作品が前奏曲とフーガは、ほぼ、同じ長さと規模を持っていました。
この時代の作品の多くは、楽譜に書かれた音符は、即興のimageをsuggestするための音符に過ぎず、書かれた楽譜の音を忠実に再現しなければならないという事ではないのです。

右の楽譜も、書かれた和音は、和音で(arpeggioで)演奏するという意味ではありません。

もっと、高度な課題は、HandelのOrganconcertoです。
その多くのconcertoは、2楽章がなく、(あっても、和音が2個書いてあるだけで、演奏者の自由に任せてあるのです。

その和音も、フリギア終止や、次の楽章に対しての半終止であったりして、それまでは演奏者の即興に任せられていて、最後に作曲者から指定されている和音に繋げて行けば良いのです。(でも、その演奏者は、Handel自身であったのですがね。)

非常に優れた演奏の例は、Munchen時代によく食堂(Kantine)で、激論を戦わせていた、Karl Richter教授の演奏、特に、巧みな即興演奏は素晴らしいです。

この優れた演奏は、こんにちでは、You Tubeでも聴く事が出来ます。





当時の慣習としての演奏形態

またbaroqueの時代には、当然、多くの優れた作曲家達が、そういったImprovisationの技術を習得させるための教科書的な作品もたくさん書かれていて、今は多くの著書が出版されている。

TelemannのCembaloの為の「fantasia」は楽譜では2
声で書かれている楽譜を内声充填して厚みを持たせて演奏するための教科書として書かれている。

私がドイツに留学していた時「Friedemann」というトーキーになったばかりの頃の(言わずもがな白黒の)古い映画を見に行った。

Bachの息子の物語である。
その中の一シーンであるが、誰もが弾くかの有名なBachのMenuetト長調を、貴族の令嬢がFriedemannからlessonを受けるシーンがあった。


令嬢が楽譜通りに可愛らしく弾き出すと、Friedemannが「いや、そうじゃありません。」といって内声を加えて重厚に弾き始めた。

ただの音楽映画であったとしても、baroque時代の即興演奏が見事に出来ている・・・正しいbaroque時代の演奏styleによる時代考証が正しく描かれている事で、やはりドイツの伝統の重みを感じた。

映画自体のストーリー自体は、「蕩児の帰宅」というキリスト教の定番の物語で、チープなのだが、映画を見に来ていた老人夫婦が画面に引き込まれるようにして、おろろんおろろん、泣いていたのがとても強烈な印象だった。
その歳になると、きっと色々とあるんだろうなぁ???



basso continuoのお話

またbaroque時代のviolinやfluteなどのsonateや小品などは殆どがcelloかgambaなどのpartとして、2声で書かれていた。
それは伴奏をする楽器が必ずしもCembaloとは限らず、Lauteなどの楽器で伴奏されることも多かったからであって、それが(そういう風に書かれると言う事が)一つの慣習となっていたからである。


corelliのla foliaの直筆譜

CembaloやLauteのpartをgamba譜(cello譜)で書き、その音符の上に数字で和音を書き表した譜面を「通奏低音」と呼ぶ。
(クリックすると、「芦塚音楽研究所のhomepage」から「芦塚先生のお部屋」にlinkします。)


triosonateなどのensembleや(前述のviolinやfluteなどsoloの伴奏を含めて)orchestraのCembaloのpartなどには数字譜を即興で弾くための、通奏低音技術必要するこれら技術習得して初めてCembalistいう名前呼ぶことできる
(補足)Peters版や殆どの日本で出版されている版のviolin譜などには、伴奏譜はPianoのために書かれている。
又、corelliのla foliaやVitaliのchaconne等のように、原本から全く別の曲として編曲されて、そちらの方が有名になっているものも多い。Peters版などのヨーロッパの出版社では、原典版としてbasso continuoによる(Cembalo譜)としての版も並行して出版している。
演奏のstyle(形態)によって、何れもが選択できるようになっている。

 

またCembalo楽譜にはよくハ音記号使用される
有名BachinventionWohltemperirteではCembaloの右手にト音記号ではなくソプラノ譜表使用される
時代が下ってMozartPiano作品でもoriginalの手書き譜ではハ音記号が多用されて書かれている
baroqueの
音楽研究するためには、どうしても原譜扱うこと多いそのためハ音記号読めないこと致命的ことなる



Mozart rondo a moll

 


ornamentや即興演奏、あるいは通奏低音など勉強ためには基礎知識して和声完全習得必要ある
和声
完全理解即興演奏通奏低音などを正しく演奏することできる



またCembaloには、Cembalo独自奏法ある
legatissimo奏法オルガン奏法とも呼ばれるfinger・legato(或いはfinger pedal)などさまざま奏法熟達しなければならない

又、BachのFugaなどの対位法を駆使した、polyphonyの作品を演奏するためには、楽曲分析から導き出されたAgogikによる弾き分けが大切である。


Cembaloのtouchについては今回は全く触れていません。
私がまだ幼い頃(高校生の頃の話ですが)Cembalistとして、神様のような存在であった、Wanda LandowskaのCembaloを弾いている写真を見て鷲が獲物に襲い掛かるような手と、魔女のような鉤鼻を見て驚いた事があります。

「何でこんな手をするんだろう?」素朴に疑問を感じていました。

音楽大学に入学してOrganの友人が出来、練習などにもたちあうようになって、しかも私自身が親しいCembaloの先生と一緒に、大学にCembalo科を作ったりして、ちゃっかりとCembalo科の第一期生になったりして、実際にpipeorganやconcertoCembaloに触れる機会が出来て、Wanda Landowskaの手の形の謎が解けました。つまりCembaloは8feetだけでは、fazer・touchとでも言うように微妙で軽いのですが、baroqueのCembaloでも、8,8,4、(modernCembaloの場合には8,4、の上鍵盤と8,16の下鍵盤を)koppel(カプラー)といいますが、下の鍵盤を弾くと上の鍵盤が同期して下がります。
特にmodernCembaloの場合には、16feetの音が入ると、鍵盤が非常に重くなってゆっくり弾こうものなら、「ジャン」と一つに鳴らなければならないCembaloの音が、「ジャ、ジャ、ジャララン」と、ばらばらに音が出てしまいます。
オルガンの場合にはコッペルが二つの鍵盤ではなく、更に三つ、四つ、NHKや目白のカテドラル、音楽学校の大オルガンでは5段、外国に行くとさらに6段のものもあります。
ですから、鍵盤を押すという作業も大変な力がいることになります。
もっとも、そのつもりで一段だけの鍵盤を弾いたら、今度は軽すぎてずっこけますが・・。

と言うわけで、CembaloのtouchがPianoとは、如何に違うか??・・という事は、朧気ながらでもご理解していただけたと思いますが。

baroqueの音楽を勉強する上での基本中の基本である、Bachのinventionですら正しく(せめて譜面通りに)弾いている(学んでいる)生徒を見た事をこんにち迄、未だ一人も見た事はありません。

某国の国立音楽大学や超有名私立音楽大学の学生ですら、そうなのですから、巷の音楽教室にそれを望むべくもありません。。
これは、音楽をたしなむものとして、悲しむべきことです。
そういったことについては、また、次回に、別のPageでお話しすることにします。