index

クリスマス会(リハーサル)

programサンタの部 ⇒音あてゲームのお話 ⇒サンタオーケストラの演奏とコンサート ⇒後片付けのお話(教室の後片付けのconceptは )⇒楽器を磨くという事 ⇒挨拶や後片付けの意味

冬の合宿(指導のお手伝い)

その曲を弾けるからといっても、指導出来る分けではありません。 ⇒芦塚メトードの根源は音楽の魂を学ぶ事です。 ⇒音楽を理論として学ぶ事について ⇒日本人の心の奥底にある音に対する意識Ⅰ音楽を理論として学ぶ事についてⅡ芦塚メトードのソフトでの指導Beyer教則本を使用している古めかしい教室




恒例のクリスマス会を花園教室前の自治会館で開催しました。

花園の自治会館の正面
自治会館の外の写真を探したのですが、皆の写真はあっても、外の写真が一枚も無かったので、ネットで探してみましたが、全く同じで、写真が一枚もありませんでした。という事で、急遽、生徒に頼んで写真を撮って貰ったのですが、もう夕暮れで写真が真っ暗でした。
という事で、写真を補正して、昼間のように修正しました。
右側の真ん中に、白抜きの写り込みがありますが、実はグリーンベルトの外灯の灯りです。
上の木の枝もライトアップされていたようで、小さな豆球の灯りが点っています。
でも、補正してしまうと、何の事か全く分からなくなってしまいますよね。
下の写真は同じ写真の補正済みの写真です。右側の外灯の灯りはワザと修正していません。



クリスマス会までの期間は、秋の発表会(13年10月20日)からあまり期間が開いていなかったので、練習不足の感もありましたが、頑張りました。秋の発表会からクリスマス会の練習不足は、ローテーションの関係で、毎年の事で、いつものことなので、仕方がありませんがね。

秋の八千代のコンサートやクリスマス会への出演を取りやめたりして、先生達の仕事の量を減らしたりして対処、対応して見たのですが、やはり人手不足やローテーション的な意味でも、焼け石に水という感じは否めませんでしたが。

という事で、子供達が提出したクリスマス会と冬合宿のアンケートにも、もう少し早くクリスマス会の企画が分かっていたら、・・という事も、分かってはいる事なのですが・・という事で、・・先に弁解しておきます。
アハッ!  (^^♪


クリスマス会、トナカイの部の導入には、前回の八千代で演奏したパッヘルベルのシャコンヌを芦塚先生がリニューアルして、より重厚にオーケストラの曲らしくなったシャコンヌを、練習は2,3回しか出来ませんでしたが、お披露目しました。
この曲は来年の4月の発表会に向けて、もう少し演奏に磨きを掛けて行きますので、ご期待下さい。

クリスマス会 2013年12月22日(日) 主催芦塚音楽研究所 場所:花園自治会館
リハーサル
リハーサルとは言っても、会場作りの準備で結構大変です。
舞台裏のお母様達のセッティングの風景です。人形劇の準備中です。PAの配線とか人形の準備とか・・色々と大変です。だからリハーサルは、時間ギリギリで通り一遍通し練習をするぐらいしか出来ません。


学年の小さな子供達の演奏する立ち位置は先生達が確認をします。
勿論、子供達がちゃんと自分の立ち位置を覚えたのかの確認もします。
ちゃんと、覚えられたかな??



お姉さん達は自分の演奏する曲の順番や椅子、譜面台等の確認です。これを間違えると大変な事になります。確実にしっかりと、しかし急いで・・・ (;´∀`)
しかし、なんにも指示しなくても手馴れたものです。ミスも全くありません。



午前中のリハーサルタイムが終わったら、皆でお昼のカレーを食べます。
牧野先生の手作り・・・というか、お子様用に、甘口ですよ。
昔は、カレーは、少し多めに作って、先生達専用に辛口のカレーに作り直していたのですが、近頃はそのまま合宿に突入するので、余分には作りません。
辛口のカレーは子供達は食べれませんのでね。



indexへ

program
サンタの部  サンタオーケストラと (~小学校3年生までのお友達の演奏)
クリスマス会は、何時もの通りに、サンタオーケストラで、「諸人こぞりて」始まります。
本当は、暗転で真っ暗な中で演奏しますので、前回や前々回のビデオは、画面が真っ黒で、音だけの録音みたいに見えてしまいます。
勿論、指揮棒も見えないので、魔法の光る指揮棒で指揮をします。
前回のクリスマス会のopeningは全く真っ暗で、何も見えなかったので、今回は、わざと、明るい時の写真です。



音楽人形劇 楽しい人形劇とオーケストラの演奏 コンサート(幼稚園生)
お楽しみの人形劇です。前回の時には、Sait-Saёnsの「動物の謝肉祭」は全曲を演奏しましたが、人形劇のストーリーとの兼ね合いで、今回は抜粋して演奏しました。






9ひきのトナカイの劇
恒例のトナカイさん達の寸劇です。

ケーキ・タイムと音楽ゲーム
「音あてゲームのお話」
音あてゲームですが、ここで子供達がやっている音あてのカードは、普通にお目にかかる単なるト音記号とへ音記号の音符カードの音あてではなく、普段はお目にかかる事のないアルト譜表や色々な音部記号の音あてゲームです。
アルト譜表はヴィオラやトロンボーン等の楽器が使用します。
テナー譜表はチェロ等の楽器の高音域に使用されます。
ヴィオラはヴァイオリンと比べて楽器が少し大きいだけでヴァイオリンが演奏出来る人達なら演奏出来ると思われがちですが、使用する譜面自体が違うので、譜読みすら出来ないし、ビブラートや弓で音を出す出し方も、色々と違います。
ヴァイオリンとは、全く違った楽器として演奏しなければなりません。
ヴァイオリンとヴィオラの違いについては、詳しくは別のページを参考にしてください。
(日本のアンサンブル教育について)⇒ 芦塚先生のお部屋より


トナカイの部



全体合奏の曲です。ヴァイオリンやピアノの生徒さんがリコーダーに、楽器を持ち替えて演奏しています。

indexへ

恒例の、牧野先生の手作りのケーキです。
サンタオケの皆さんです。
「卯子ちゃん?マスクしたままでケーキ、どうやって食べるの??」



な!な!何と、親子2世代ではなく、3世代の合奏です。
凄い!!



サンタオーケストラの演奏とコンサート (小学4年生以上)
サンタの部は、Pachelbelのchaconneから、始まりました。
Pachelbelのchaconneは、前回の八千代のコンサートの時の、Mueller-Hartmannのversionではなく、芦塚先生がMueller-Hartmannのversionを補筆訂正して、新しいversionになりました。
このchaconneのimageは、クリスマス会のimageとは違って、重厚で深刻なimageの曲ですが、芦塚先生versionのchaconneのお披露目です。
新しいversionに書き換えてから、練習は一回しか出来ませんでした。
前回のoriginalの曲よりも、演奏も技術的にも、だいぶ難しくなって来ました。

クリスマス会が終わって、「Pachelbelの練習が終わった!」と思っていた人達がいたみたいだけど、そんなに甘くはないのよね。
芦塚先生が「今日ダメだった所、正月明けのオケ練習迄に練習しておいてね!」と言われてしまいました。「えっ?!未だやるの??」「曲の練習に終わりはないのだよね!」
という事で、この曲はもっと磨きを掛けて、ちゃんと練習を積んで、次は春の発表会でも、演奏します。アハッ!

パッヘルベル シャコンヌ 芦塚先生version


orchestraのintroが終わって、いよいよ年中さん、年長さんの演奏です。
Mozart 2台のPianoのためのsonate ニ長調のⅠ楽章です。
仲良しコンビで練習しました。
2台の楽器が離れすぎていて、ビデオに上手く映っていなかったので、ビデオをお借りして、You Tubeにupしました。
という事で、半年後になってしまいました。
アハッ!


indexへ

後片付けのお話

[教室の後片付けのconceptは・・・]

芦塚先生の教室を開設する時の重要なコンセプトで、「レッスンは挨拶に始まり、挨拶に終わる。」「皆が使用する教室や楽器もみんなでお掃除や手入れをする」・・・という、ポリシーで、芦塚先生の直弟子達は躾を受けて来たので、昔は、それが当たり前でした。
日本の音楽大学は、未だに江戸時代からそのままの時代錯誤の家元制をとっているのに、挨拶や徒弟制度は、現代的なのはチョッとeccentric(エキセントリック=奇妙な)な感じがします。

芦塚先生としては、学校の勉強のような、表面だけをなぞる勉強ではなく、音楽の魂に触れる教育を望んで、始めたはずの音楽教室なので、出来る所から、本当の芸術に立ち向かう姿勢を学ぶという意味でも、礼に始まって礼に終わる教育や、塾のように、どんなに道具を使用しても、手入れすることも、整理する事もなしという事ではなく、自分の楽器を大切に出来るように、正しい手入れの仕方や本当の意味での使用法を、例え、レッスン時間の中ででも、それがレッスンそのものだと思って、指導していました。

しかし、教室の長い歴史の中で、芦塚先生の病気療養のために、先生が直接生徒や先生達の指導に携わる事が難しくなってしまい、先生達や生徒達の音楽に対する意識が、音楽の技術のレベルのみに関心が行ってしまって、教室のお手伝いや楽器の扱いに関する指導がおざなりになってしまいました。

そういった礼に始まる教育や、楽器の扱い方、後片付けの指導なしには、音楽や人生に対する意識が育つ事はありません。

そういった事もあって、3年程前から、芦塚先生も出来る限り、教室の指導に携わるように頑張って頂いています。

しかし、口で説明するだけでは、付け焼刃になって、理屈では分かっていたとしても、心では分かったようにはなりません。
そういった所が、今回も、生徒のチョッとした不注意で楽器を壊してしまうという事件がありました。
でも、それは、楽器の特性をちゃんと分かっていれば、楽器を壊したり傷めたりする事はないのです。
楽器がより高価になればなる程、基本的な楽器の扱い方の注意が必要になります。
音楽のレッスンの時間に追われてしまって、忙しくて、楽器の取説が出来なかったという事は、音楽をライフワークとする生徒達にとっては、弁解にはなりません。
時間がなければ、折に触れて注意していけば良いのです。

車で事故を起こせば、大変な事になるのは誰でも分かっている事です。
でも、それでもどうして事故が起こるのでしょうね。
保険屋さんによると、事故を起こさない人は全く事故を起こさないそうで、事故を起こす人は、事故を繰り返すそうです。
つまり、事故を起こさないタイプの人と、事故を起こすタイプの人がいるという事です。
では、事故を起こすタイプの人が、事故を起こさないように自分を治す事が出来るのでしょうか??
それは簡単です。
ヒヤリとした事があったら、その日一日はそのヒヤリとした運転をしないようにする事です。
例えば、左折の時に車の横をcheckするのが遅れたら、その日一日は左折の時にバックミラーをしっかりと確認します。
後は、貰い事故を避けるためには、タクシー・ゴミ収集車・フラフラしている車の後ろにはつかないという事です。長距離運転の時には、長距離のトラックの後ろに付いて運転します。オート・ドライブで一定の速度で安定して走行するので、疲れません。高速道路で長距離を走る時には、殆どの人達がそうしています。
事故を起こす時には、自分が焦ったり、イライラしたり、瞬間に自分を見失った時に起こす事故が殆どです。
今回の生徒の楽器を壊した事故も、楽器が言う事を聞かなくって、イライラして無意識に払ったのが原因なのです。
本当に高価な楽器を持つのなら、そういった無意識のイライラも許されない事なのです。
音楽は一瞬の芸術です。一度出してしまった音を取り戻す事は出来ないのです。
音楽の演奏には消しゴムはないのですよ。
だから、演奏家には、どんな状態であれ、セルフコントロールを失う事は許されない事なのですからね。


という事で、今回の合宿は、芦塚先生からのお達しで、合宿の皆の食事を作るお手伝いを小学生から率先してお手伝いして行こうとか、レッスン会議などを、上級生だけではなく、中学生達にも、小学生達にも、先ずは、「出来る所から始めて行こう」という事を冬合宿のconceptにしました。
小学生でも食事の準備のお手伝いが出来るように、色々と出来る事からのお手伝いのカリキュラムがあります。

普段のオケ練習では、順番にオケ練習が終わるので、練習の後の後片付けは、lessonの最後までいた上級生だけが、お迎えの来るまでにお手伝いをしていましたが、合宿なので、久しぶりに生徒全員で後片付けを手伝いました。

ただ、ここで教室のポリシーを確認しておきますが、芦塚先生の教室開設のconceptが「後片付け」であったとしても、教室のカリキュラムとして、生徒達にお手伝いをさせたり、後片付けを強要する事はありません。

これはあくまで、自主的なお手伝いの話なので、お迎え等で自分の時間的な都合の悪い生徒や、お手伝いをしたくない生徒がいるとしたら、勿論、当然、お手伝いをする必要はありません。
(今まで、「お手伝いをしたくない」という生徒は一人もいませんでしたが・・、もしいたら、の話です。)

「何故、お手伝いを嫌がる生徒が一人もいないのか??」って??
それは簡単な理由です。
教室は、音楽教室であって、学校ではないから、お手伝いは義務ではなく、生徒の権利なのです。

だから、嫌ならやる必要はありませんし、その方が上級生は仕事がテキパキと早く終わってしまうので、後輩が手伝ってくれなくても、先輩達は、ちっとも、構わないのです。
だから、権利であって、義務ではないのですよ。ハッ、ハッ、ハッ!

ちなみに、教室にいると、レッスンの前や、オケ練習、室内楽の時に皆で挨拶するのが当たり前で、自然です。
寧ろ、挨拶をしない方が、不自然に思いますよね。

しかし、教室ではlessonの時や、オケ練習等の時に普通にやっている挨拶なのですが、不思議な事に、音楽大学や、一般の音楽教室では、lessonの始まりと終わりに、挨拶をするという習慣はありません。
挨拶をしない方が、一般的なのですよ。

indexへ

[楽器を磨くという事]

一般の音楽教室では、lessonを始める前に「先生と生徒が挨拶をかわす」という習慣すらないのですから、当然、生徒が先生と一緒に、lessonで使用したピアノを拭いたり、或いは、lessonが終わって、自分の楽器を磨いて楽器ケースにしまう、という習慣はありません。

そんな事をやっていたら、「次の生徒のレッスンのじゃまだから、家に帰ってから磨きなさい!」と怒られてしまいます。
でも、先生が、生徒が楽器を磨く事を見る事はないのだから、生徒は楽器の磨き方(手入れの仕方)は、知りません。分からないのです。
楽器屋さんで習ったとしても、それは表面的な事で、本当に楽器を大切にするための磨き方ではありません。

私達の教室では、先生が直接、子供達に楽器の磨き方、手入れの仕方を指導するから、生徒が自宅で自分の楽器の手入れが出来るのです。
という事で、一般の教室の生徒達の場合には、ピアノを弾いたらそのまま蓋をするだけ、・・・・ヴァイオリンを弾いたらそのまま楽器ケースに放り込んでお仕舞いです。

そういった事は、楽器の取り扱い方にも直接的に、直ぐに表れてきます。
例えば、楽器屋さんのお話では、楽器店に自分の楽器を下取りに出す時でも、「どうせ、下取りに出すのだから・・・」と、汚れたままで、自分の楽器を下取りに出す人達が多いそうです。

「楽器店に下取りに出せば、どうせお店の人達がプロフェッショナルに楽器を磨くのだから、自分達が楽器を磨くのは無駄だ」・・・という話を、他の教室の先生(!!)が、その先生の生徒にしていた・・と聞きました。
確かに、そりゃそうだわな??!!

しかし、色々な楽器店の人達からは、「芦塚先生の生徒さん達の楽器は、とても綺麗にして、戻って来ます。」と、よく褒められます。
その分、余程の事が(どこかを傷つけたとかが)ない限り、教室の生徒さん達の楽器は100%で下取りをしてもらえます。(勿論、消費税は戻っては来ませんがね。)
先ず、自分の楽器を大切に出来ないと、良い楽器は手に入りません。何故なら、という事は下に詳しく書いておきます。
また、弦楽器に限らず、Pianoでも、メンテナンスはとても大切です。楽器店に持って行くまでもないのですが、演奏には甚だ不都合なチョッとしたメンテナンスも上級生になってくれば、出来なければなりません。
芦塚先生は、Pianoの音(pitch)が2,3個狂った時には、自分でサッサと調律してしまいます。
grandの鍵盤が上がらなくなった時にも、バラシてサッサと直してしまいます。
仲良しの調律師の人が来る時には、touchに関して細かいorderを出します。何処をどのように調整するのか・・普段のレッスンの時にcheckしてあるのです。
でも、それは楽器を良く知っているから出来る事で、楽器を知る事の第一歩は楽器の磨き方から始まるのですよ。


indexへ

[挨拶や後片付けの意味]

挨拶から始まって、挨拶に終わる・・という事や、例え教室の楽器だったとしても、楽器を大切に磨くという事は、楽器を大切に扱うという事を教えるための躾でもあります。
自分の楽器や教室の楽器を大切に扱えなくって、本当の意味での音楽が上達する事はありません。
「弦楽器を買う」という意味を誤解している人達がいます。「楽器は買えば、自分の所有物である。」
という風に思ってしまうのです。
でも、それは大変な間違いです。
楽器は、100年、200年と色々な演奏家達の所有となり、多くのヴァイオリンの工房の人達の手によって何百年も大切に手入れされてきて、今の音が出るのです。
だから、楽器を物と間違って、粗末に払う人は、高価な楽器を持つ資格がありません。
楽器は、あくまで一時あづかるだけなのです。
だからその楽器を演奏しなくなったら次の持ち主に渡さなければなりません。
幾ら大金を払っても、そんなに良い楽器を手にする事はないのですよ。
楽器を粗末にする人に、本当に良い楽器を売ってくれる楽器店はないからです。

高価な楽器を下取りをしても、二度と売れなくなった楽器を芦塚先生達は数多く見てきています。

粗末にはらうとどんなに高価な楽器でも、二束三文になってしまうか、否、二束三文でも売れなくなってしまうのですよ。
音大の先生であっても、楽器の手入れの仕方すら習った事はないのだから、楽器の扱い方には、恐ろしいものがあります。
ヴァイオリンの調弦をするのに、ペグをキコキコと回して調弦をしようとしたり、弓に松脂をたっぷりと塗って、弓を大きく振って、ピュッ!ピュッ!と松脂の余分な粉を落としている先生達がいます。
先生達がいるという事は、その先生の門下生は皆そうします。
芦塚先生が「ウワ━(。・ω・)ァァ━・゚・!!!弓が折れる!!」と驚くと、「でも自分の先生がそうするのですが!!」と逆に驚かれるのですよ。
楽器屋さんは、弓をそんなに粗末に扱う先生の弓は、幾ら高価な弓であったとしても、下取りはしたくないでしょうね。弓は床に先端をポンと軽く置いただけでも、折れてしまうぐらいに、繊細なものなのですよ。日本刀じゃあないのだから、血糊を取る作業は要らないのですよ。

詳しい話は、楽器のお話の中にかなり詳しく、お話ししていますのでそちらを参考にしてください。「ヴァイオリンのお話」

楽器を大切にする心が育たないままに、それで、幾ら演奏する技術のみを追求したとしても、外面を取り繕うだけで、魂のない音楽にしかなりません。
勿論、楽器も演奏には応えてくれません。
幾ら弾いても、練習をしても、楽器に対する心がそれなら、安っぽい音しか出ないのですよ。
それが例え1千万円を越す楽器であったとしても、50万や100万の楽器と同じ音しか出ないのですよ。
自分が、自分自身が演奏する音楽や作曲家、そして音楽を表現するための楽器を粗末にするのなら、それは音楽とは何かすら分からない、うわべだけの人間になってしまいます。

物を大切にする心を育てる事は、それが自分の楽器や音楽、ひいては自分自身を大切にする心を育てる事だと芦塚先生は考えています。
自分が演奏している音楽の価値を付ける事は、自分の楽器を大切にする気持ちから育ちます。
自分の演奏している音楽を大切にする心が育てば、その曲を書いた作曲家の魂に触れる事が出来ます。
そして、作曲家の魂に触れる事が出来れば、聴衆の心を掴む事が出来るはずです。
そういった心は物を大切にする事から学べるのです。
教室を開設した時から、芦塚先生が子供達に教えたかったのは、お掃除の心です。

そういったお掃除の心は、さすがに上級生達には、自然に備わっています。
楽器に対しての、取り扱いが出来なければ、高価な楽器を所有する事は許されない事ですからね。
高価な楽器になればなる程、ビビッドになってくるのですからね。

上級生や先輩諸氏が率先して、どんどん後片付けをしたので、今回は小さな子供達に至るまで、頑張って後片付けを手伝っていました。
おかげで、時間までに自治会館の荷物を搬出出来ました。
今回は新しい小さな生徒さんが増えたので、そこの指導が大変だなと思っていたのですが、その指導も上級生先輩諸氏でやっていたので、本当に助かりました。


楽器を片付けるのは、その楽器を演奏した人達が担当します。
キーボードの足(キーボードの台)をばらすのはとても複雑で大変です。
キーボード担当の人がバラシや組立を担当します。
しかし、智子ちゃんや美帆ちゃんはKontrabassも担当だし、オケ教室ではCembaloも担当しているので、譜面台を片付けて、ピアノを片付けて、コントラバスを、チェンバロを・・・と、智子ちゃんと美帆ちゃんの後片付けは大変ですよ。
でも、さすがはベテラン!!
要領よくサッサと分担しながらピアノを磨いて、コントラバスの手入れをして・・・とサッサと後片付けをしてしまいます。
とても早くて、丁寧で落としがありません。
そこらへんの要領の良さは、演奏の技術のレベルに比例するのかな??
雑談をしながら、笑いながら、落としなく、サッサと仕事をこなして行きます。
こんな感じで・・・(^^♪  !!

それだけでなく、ホール全体をcheckして、皆の忘れ物のcheckもしたりして・・・・!!
「また、*ちゃん、譜面や筆箱忘れてるよ!!」


indexへ








冬の合宿 24日(火)~26日

[指導のお手伝い]

憧れの合宿です。
今回は、初参加の小さな生徒さん達が多かったので、今まで、お姉さん達に指導をして貰っていた今までの最年少の生徒さん達や年中の生徒さん達が、今度は指導係に昇格して、初参加の生徒さん達の練習のお手伝いをしました。
今までの指導係の先輩達は、今まで同様に中級の生徒さん達の指導係と、これまで指導して来た、生徒さん達が初参加の生徒さん達の指導をしているところの、サポートと補足をしました。
所謂、教室のdouble teachers systemの合宿versionです。
初めての指導係です






合宿本来のコンセプトは、2012年の12月24日の冬のPageにも詳しく書かれていますので、そちらのPageにリンクさせることにします。。
合宿のお食事について、合宿の練習風景とそのconcept、楽典教室についてのお話、四日市教室からのお友達の参加について、参考までに、2012年の冬の合宿のPageにlinkさせておきます。

練習のお手伝いは、譜読みや演奏の練習のお手伝いだけではありません。

勿論、他所の教室ではやっていませんが、色々な譜表を読む練習やrhythmの把握等を、理論的にシステマチックに勉強します。
一日練習三昧では疲れてしまいますよね。息抜きを兼ねて、プリと一緒に教室の周りをプリっ歩です。


プリちゃんです。男の子です。

(^-^)/写真を撮りますよ!こっちを向いて・・・・!!!


indexへ

「その曲を弾けるからといって、必ずしも指導出来る分けではありません。」

大きいお姉さん達も、勿論、指導のサポートをします。
(^-^)/・・・わかった???



一般的には、音楽が演奏出来るようになれば、指導は出来るようになると思われています。
上級生にとっては、初心者を指導するのは、いとも簡単!!と、ついつい思いがちです。
・・・ところがそうは問屋が卸しません。

音楽大学を卒業して、就職を希望する先生予備軍の人達が教室にも訪れます。
その人達の大半は、一度も子供を指導した経験がないだけではなく、初歩の教材なんかは勉強する必要は何もない・・と思っています。

実際には、音楽大学時代に、バイトで近場の音楽教室で指導した経験がある生徒もいます。
確かに、そういった経験があると子あたりは、他の就職希望者よりも良いようですが、それと音楽の指導は関係がありません。
子供を指導するには、それなりのカリキュラムが必要なのですが、しかし、残念ながら音楽大学では、子供の指導や初歩のカリキュラムのlectureはありません。
極まれに、音楽大学の付属音楽教室で生徒を指導している先生が、その先生の指導に付属音楽教室の生徒を対象にして指導のlectureをする事がありますが、初歩の初歩の段階で、音楽大学の付属音楽教室や音楽大学の先生に直接指導を求める生徒、父兄の意識は、私達、一般の音楽教室の生徒達の意識とは根本的に違います。
初めから音楽大学に進学する事を目的として、コンクールや留学のための音楽の勉強であり、レッスンが辛く厳しい事は当たり前なのです。
そこには、音楽は楽しく・・という発想そのものがありません。
親と子供が毎回のレッスンで涙を流しながら厳しい先生のレッスンに耐えているのです。
音楽大学とは、そういった辛さに耐えられた者だけに与えられるstatusなのです。

昔、私達の教室に面接に来た音楽大学の卒業生に、芦塚先生が「子供達に音楽の楽しさを指導して音楽を大好きにして欲しいのですが・・?」と言うと、面接に来た卒業生が「音楽は楽しいものではありません。厳しいものなのです。」と、即、返して来ました。
芦塚先生が「でも、うちは、ただの音楽教室なので・・・」という事で、面接は終わりになりました。

一般的には、「音楽を楽しく教える」という事は、生徒達にへつらって迎合して教えるという意味になるのです。
ですから、その面接に来た学生は、芦塚先生が「子供達に音楽の楽しさや素晴らしさを指導して欲しい」と言ったのは、「子供達にへつらって、妥協して、おべっかで褒めて指導して欲しい」と言われたという事だと思って、すこぶる傷ついたのですよ

でも、それでも一般の教室で、厳しく指導しながら、発表会レパートリーの音楽を教える・・というのは、矛盾していますよね。

私達の教室のように、「Classicの音楽を、楽しく教える」・・・という、発想自体が日本の音楽教育界にはないので、「Classic=つまらない音楽、勉強のような音楽」・・という風に捉えられてしまうようです。
詳しくは**のページを参考にしてください。

教室の生徒達にとっては、「Classicがつまらない」という発想自体がないので、そこの問題は全くないのですが、それでも、子供達が、実際に指導をしてみると、本当に指導の難しさが分かります。

今まで、自分で何気なく演奏出来ていた所が、指導してみると、それを後輩達に、伝えられないのですよ。
そこで、自分達がどうして、演奏出来るようになったのか、その過程を思い出せば良いのですが、ここの所も、一つのネックになるのですよ。

つまり、子供達が上手くなって、楽に演奏出来るようになってくると、子供達は自分が最初から出来ていたように錯覚に囚われてしまって、先輩に指導して貰って、一生懸命に練習した記憶すらなくなってしまうのですよ。

という事で、「私達は合宿で上級生から指導してもらった記憶がないよね(あんなに出来なくなかったよね)~普通に譜面よんで普通に弾けてたよね~」

それを聞いた先輩達は、カンカンに怒っていましたよ!全然出来なくって半泣きで練習していたのは誰よ!!普通に譜面が読めるようにトレーニングしてあげたのは誰よ!!ってね!!

先輩諸氏が先生に厳しく怒られながら、後輩の指導のpointを習ってきたから、その後輩達が「普通に譜面よんで普通に弾けてたよね~」 ってなるのでしょう??

「喉元過ぎれば、熱さを忘れる」ってね!!

methodeがなくて、独りでにいつの間にか出来るようになる・・という事は絶対に有り得ないのですよ。
そりゃ、当たり前でしょう??
でも、いつの間にか独りでに出来るようになるというmethodeを学ぶことは素晴らしいことですよね。
・・で、そんなmethodeは何処にあるの??
アハッ! ここでしょう!!


indexへ

「芦塚メトードの根源は音楽の魂を学ぶ事です。」

音楽の上達のためには、感謝の念を忘れないことが大切ですよ!!
日本の音楽家達は、自分が有名な先生に師事した事を自分のstatusにしようとします。
有名な先生は、喩え一回、二回見て貰っただけでも、自分の恩師になります。
それで、本当に長年自分を育ててくれた先生に対しての恩を忘れる傾向にあります。
しかし、それは、有名な先生の威厳に乗っかっているー所詮はー、虎の皮を着たピアニストにしかなりません。だから、Sait-Saёns先生が馬鹿にするのですよ。アハッ!
本当に誰が自分を育ててくれたのかが分かれば、その人の将来は安定します。
だって、本当の意味での、バックボーンを見失わない事が、将来の自分を作ることだからですよ。
一般の社会の感覚としては、当たり前の事なのだけどね。
事が音楽になると皆、寄らば大樹で、・・狂ってくるようです。
夏の講習で一週間ザルツブルグに行っただけなのに、ザルツブルク音楽学校留学とか、履歴に書いたりして。
でも、それで「凄い!」と思ってくれる人達は所詮は素人だけなのですよ。
少しでも、音楽を齧った人達には、そんな見せかけは通用しません。

それどころか、そういう風に自分を見せようとする人達は、所詮は、張子の虎で、中身はないと、解釈されてしまうのですよ。所詮は、上っ面の音楽家だ!!ってね。
皮だけ作って、中身は入っていないのよ。
寄らば大樹は、音楽教室や音楽大学には成り立っても、音楽界には成り立たないのですよ。
そこは実力の世界だもんね!



勿論、私達の教室でも、通常のレッスンでは、その生徒に対してのlectureをします。
何故、芦塚先生は上級の生徒達には、他の生徒の指導をさせるのか?
そこには日本の教育が抱える大きな勘違いに対してのantitheseがあります。
その一つが、「演奏出来れば、指導は出来る」という勘違いです。
その勘違いは、教室で勉強している生徒達も同じ勘違いがあるのです。
しかし、いつも芦塚先生がいうように、教室で勉強して音楽大学や留学をしたからといって、それは芦塚メトードで学んで来たという分けであって、芦塚メトードを学んだという事ではないのです。
塾の回答と音楽大学の受験の回答は、問題に対しての答えが合っていれば、合格ですよね。
でも、芦塚メトードではそうは行きません。
回答は合っていたとしても、本当の意味で理解が出来ていないと、合格にはなりません。
合っているはずの回答も、曲の時代が違えば、或いは相手の生徒のlevelが違えば、間違いになってしまいます。
あるpassageの練習法は、その生徒、一人一人に合わせて、数種類のカリキュラムが準備されています。
勿論、いつもお話するように、小学生に時に学ぶChopinのEtudeのその曲を、中学生の時に、レッスンを受ける時には、全く新しいカリキュラムで学びます。高校生になっても、音楽大学の学生になっても、際限なくversionupして行きます。そして、レッスンはだんだん難しくなっていきます。最終的には演奏家としてのproversionのレッスンを受ける事になります。
それで、初めて(その曲のレッスンは終了)となります。

今回は、子供達の指導も、教室では二段階の指導を準備しています。
今回は今まで、お姉さん達に練習のお手伝いをして貰っていた小学生の生徒達が、新しく合宿に入ってきた後輩達の練習のお手伝いを始めて挑戦しました。
先輩達は、後輩の指導をcheckして、アドバイスをしたりしました。
勿論、後輩の曲の練習のお手伝いは、今まで通りにします。

そういった指導が上手に出来るようになると、その指導する側の生徒の音楽的な技術が見違えるように短期間に向上します。


しかし、くれぐれも繰り返し確認しておきますが、子供達に「後輩の面倒を見て!」と言ったからといっても、おいそれとは指導が出来るものではありませんよ。
経験で慣れて来る事によって、上手くなって来るのは、人あたりであって、子供の扱いだけです。技術指導に関しては、慣れとは無関係なのですよ。だから、面倒を見たとしても、その相手の生徒が技術的に上手くなる事はありません。
という事で、教室の合宿を見学に来た先生が「子供同士で指導させれば、嫌がらなくって練習してくれるのに違いない」・・と勘違いをしてしまって、「さっそく、自分もやってみよう」とその先生の教室で同じようにやったら、指導をした生徒も指導された方の生徒も、「先生が自分がやるべきレッスンをサボって、子供にさせた!」と怒って教室をやめたそうです。
教室で、子供同士で指導をしたとしても、指導する側の勉強である事も、指導される側もbackに先生がいて、checkがなされている事を見ているので、クレームが来ないのですよ。

教室を開設した当時は、教室に変わってきたばかりの父兄が、上級生の子供が伴奏をするのを聞いて、「先生に伴奏をお願いします。」と、言われてしまった事があります。
勿論、全員の子供の伴奏を子供達がする分けではありません。
大人でないと対応が出来ない子供もいます。当日、どう演奏が変わるか分からない生徒もいます。
上級の生徒が目一杯で、これ以上、伴奏の生徒を担当出来ない場合もあります。
音楽の表現が難し過ぎて、上級の生徒でも手に負えない曲もあります。
伴奏でも、闇雲に子供達にさせている分けではありません。子供同士の相性等といった音楽には関係のない事も配慮しなければならないのです。そういった細やかな配慮が出来て、初めて子供同士の伴奏合わせが可能なのです。
子供同士の伴奏合わせは、次のstepでは、ensembleの導入につながっていきます。
先生が幾ら伴奏しても、それだけでは先生についていけば良いだけなので、ensembleに繋がって行くことはないのです。
そういった配慮をしないままに、或いは、指導の仕方が分からないままに、子供を指導させたり、練習に付き合わさせたり、子供同士の伴奏の合わせ等に丸投げされると、本当に子供達は子供同士で音楽を勉強して行く事が嫌になってしまうのですよ。
見学に来た先生達は、子供達が楽しそうに、一緒に勉強しているのを見て、教室のそう言った当然の配慮が分からなかったのよね。
「子供は子供同士で一緒にやる事が好きだから、子供同士が勉強出来る場所さえ与えてやれば、音楽を好きになってくれる」・・と勘違いしてしまうのです。
それは、部活のようなNiveauの低い、趣味としてのapproachの場合だけなのですよ。
教室のオーケストラや室内楽のような専門的な音楽の技術的なapproachでは、ちゃんとしたcurriculumやsystemがないと無理なのですよ。



勿論、指導係と言っても、先生の代用ではないのだから、指導する子供達、一人一人の指導のcheckpointは、詳しく説明を受けています。
「合宿中にこれだけは出来るようにしてね!」という一人一人のcheckpoint(課題)を先生から貰って、そこの部分を重点的に後輩と一緒に練習します。


indexへ




「音楽を理論として学ぶ事について」
中、上級生は、日頃の学んでいるtechnicを理論としてfeedbackします。

一般の音楽大学の音楽の勉強とは違って、芦塚メトードでは必ず、その技術は論理的に把握出来なければなりません。
一般の人達は、曲が演奏出来るようなったら、その曲は指導出来るようになった・・・と勘違いをしてしまいます。
だから、日本の音楽教育が画一的になってしまうのです。
本当の意味で、「それは何故、そう弾かれなければならないのか??」それが理解出来ると、どのような状況にも対応が出来ます。
芦塚先生が、Munchen時代にや、日本に帰国した後にも、学生達から、音楽大学の先生が「こう注意をした」という話を、一つ、二つ聞いただけで、「その先生はこのように演奏させたいのだよ。」と、分かり易くlectureが出来るのも、どのようにでも、多様なinterpretationが出来るのは、色々な解釈法が論理的に分かっているから、先生の解釈だけではなく、どの先生の解釈でも理解出来るからです。

実例を上げると、下のホワイト・ボードは弦楽器のbow・technicの一覧です。
何故、教室は弓の持ち方をグルミヨーやシュバルベ先生のように、所謂、ベルギー派と呼ばれる1点支持の持ち方にしているのか?
この演奏のlevel(Niveau、所謂、技術水準)になって、始めてその弓の持ち方の価値(意味)が理解出来るようになります。
芦塚先生のmethodeの基本では、bowのtechnicを細かく分析し、整理統合して行きます。

弓には、その音の立ち上がりの部分と弾き終わりの部分、その間の音を伸ばす部分の3つに分かれます。それぞれにいくつの奏法の可能性があるのか?を考察して行きます。
そして、統合的に正しい奏法と誤った奏法を考察して行きます。


普段、オケ練習で、何気なく弾いているpassageでも、実際に理論として勉強しなおすと、演奏は出来ていたとしても、色々と(本当は)理解出来ていない所が、段々露呈してきます。

芦塚メトードで大切な事は、正しく弾けるというだけが出来上がりではありません。一般的に間違えて弾かれる技術は、その通りに一般的に間違えて演奏出来なければならないという事です。

「これは、こう間違えて演奏される。」「正しくはこう演奏しなければならない。」と、正しい表現と間違えた表現の区別が出来るという事が大切なのです。それで、始めて本当の正しい奏法とイミテーションの奏法の違いが分かるようになるのです。


「日本人の心の底にある音に対する意識」
日本人の根底にある、アジア人としての音に対する意識はヨーロッパの人達の音とは全く異なります。
日本人が良しとする弦楽器の音は、アジア人が好む弦楽器の音なのです。
それがもっと、顕著に現れて、似て非なる表現になるのが、歌です。
日本人のClassicの歌手、所謂、声楽家という人種ですが、これはヨーロッパの音楽を表現する発声とは言えません。
どうしても、モンゴロイドなのですよ。
教室でも、チョッと油断をしていると、いつの間にか、モンゴロイドの二胡や馬頭琴の音になってしまっている。
それが国民性というのかな??洋楽を学ぶ我々としては、困ったものです。
参考までに:雑談より「日本人の持つ音の感性」 別サイトへlinkします。


indexへ

「音楽を理論として学ぶ事Ⅱ」
大学の院生でも、出来ないこういった勉強方法は、とても回りくどい超専門的なmaniacな方法のように見えますが、実際には、音楽を(時代、時代の)様式として捉えていくので、一人の作曲家の一つの作品を徹底的に勉強すると、その時代の全ての作曲家に同じtechnicが応用されていくので、次の曲はとても、早く非常に高いNiveauで仕上げることが出来るようになるので、結果的には、時短になるのです。
様式的には古典派の作曲家は、HoffmeisterやStamitz、Dittersdorf、或いはMozartやHaydn等の作曲家に応用ができます。同じ古典派の作曲家ですが、古典派の最後の作曲家であるBeethovenは、音の入りが時代の様式的に少し鋭くなりますが、殆どの部分は勿論、他の古典派の作曲家と大同小異で、演奏解釈上の問題はありません。
また同様に、古典派の奏法を学ぶ事は、baroqueの音楽の演奏にも応用がききます。古典派の奏法は、baroqueの奏法が発展、発達して来たからです。演奏の技術の歴史は、弓の発達の歴史でもあります。
でも、新しい弓が出来たからといっても、作曲家の曲の様式が直ぐに変わる分けではありません。
その楽器や、その弓がある程度一般的になるには、やはりタイムラグが必要だからです。
Haydnのピアノの曲を見ていると、その作曲の様式がCembaloからforte-pianoに移行するのがよく分かります。また、Haydn自身が1790年の手紙に「私はCembaloに対する興味を失った」という一節を書いています。
という事は、そこからHaydnの作品はCembalo奏法から、forte-pianoの奏法へ移行しなければならないのです。



子供達へのStamitzのcelloconcertoをthemaにして、芦塚先生の古典派のbowtechnicのlecturelessonの光景です。こちらの動画は冬合宿2日目(2013年12月25日花園自治会館で)のレッスンの光景です。
非公開の動画なので、このページからのみ閲覧する事が出来ます。

前日の芦塚先生のlecturelessonに引き続いての、冬合宿の3日目、最終日(2013年12月26日花園自治会館)での、斉藤先生の前日の芦塚先生のlectureの復習(feedback)の説明です。前日の芦塚先生の説明を、生徒達に質問しながらの、lessonです。さて、どこまで、確認出来たかな?
勿論、この動画も非公開です。このページからのみYou Tubeにアクセスが出来ます。


先ずは奏法上の括りを、baroque時代の作曲家達から古典派までの奏法と、ロマン派から近現代までの奏法の括りに大別して、捉えます。
芦塚先生のbowtechnicの原理は、楽器制作の歴史的な楽器の発達に基づいた、演奏法の違いです。また、音楽の表現や作曲の様式の違いは、制作される楽器や弓の時代時代での、様々な改良から来る演奏可能な表現が齎す作曲様式によるstyleが生み出す演奏技法の違いに着目して、そこから齎される音楽様式と表現の違いを演奏に反映させました。
管楽器も古い時代の自然管から、古典派の時代に、管楽器製作者の天才であるテオバルト・ベーム(Theobald Böhm,1794年4月9日から1881年11月25日)は、ドイツの発明家、音楽家である。「ベーム式フルート」とも呼ばれている近代fluteを完成させた。フルート奏者としても一流であり、バイエルン王国の宮廷音楽家として活躍した。(青字はWikipediaより抜粋)作曲家としても、フルートのための作品を残しているベーム式に代表される今日我々が普通に目にする楽器に改良された事による演奏の違いです。

また、我々が普通に演奏しているPianoも、実は古典派の時代には今日我々が聞くPianoとは全く違ったPianoで演奏されていました。という事で、Pianoの奏法の歴史も、baroque時代を席巻していたCembaloからいきなり現代我々が耳にするPianoに変わった分けではありませんし、CembaloとPianoの間に、forte-pianoと呼ばれるこんにちの我々が知っているPianoの前身である楽器があって、MozartやBeethoven、Chopinに至るまでは、そのforte-pianoの愛用者だったのです。
当然、彼らが演奏していたピアノの演奏のstyleは、今日我々が普段に耳にしているピアノの演奏のstyleとは全く違います。
それは楽器の特性の違いからきます。

forte-pianoは、今では古楽器として、楽器を見ることも、CD等でその音を聞くことも出来ます。
しかし、でも、残念ながら、forte-pianoを演奏出来る演奏家は、現在では世界に一人もいません。
勿論、自称、forte-piano奏者という人々は沢山いるのですが・・・!
「何故??」

それは、一度身に付いたPianoのtouchは、もう基本的には変わらないからです。
子供の内から、或いは、ピアノを習い始めた最初から、forte-pianoで、lessonを受けて勉強して来た人は世界中にいないからです。
だれでも、最初は現代のdouble actionのピアノで習い始める。
そしてそういうdouble actionの音の感性で育っているからなのです。

forte-pianoで演奏しているCDの演奏を聞くと、皆、ジャラン、ジャランと割れた(歪んだ)音で演奏しています。touchをする時の指のeinschlag(打ち込みの)速度が遅く、指の重量が重いから、軽い弦が音割れを起こしているのです。
そういった楽器的な特性を鑑みる事もなく、forte-pianoの音割れを、音楽家達は、「forte-pianoは未だ未完成のPianoだったから、こういう音しかしないのです。」と、曰(のたま)わっている!!
それ、完全に違うんだな!!???間違いなのだな!!??

それは、Pianoだけの悲劇ではありません。
弦楽器も同じような誤解を受けてしまっているのです。
ヴァイオリンの場合も同じように、どっかの誰かが、「baroqueviolinの音は汚い!」とホームページに書いていました。

自称、baroqueviolinの奏者という人達が、baroque風に、・・・・・確かに、楽器そのものはbaroque仕様でも、ガンバのbowのようにぶっとい弓で、現代の弓速でバリバリと、しかも、ありえへん早い速度で、パワフルに演奏します。
baroqueviolinの繊細な弦や楽器の性能を無視して、力任せにバリバリと弾かれたら、そりゃ音は汚くなるだろうよ。
baroque時代には、キンキンカンカンした音や、アクロバティックな演奏はなかったのだよ。

本当に昔の天然自然のガット弦なら、そんなキンキンした音で、ガンバ棒のようにぶっとい弓で弾こうものなら、たった一音(ひとおと)弾いただけで、弦がブチっと切れてしまうと思いますよ。アハッ!
今の人達は、本当のガットを弾いた事がないんだね??
こんにち我々は買っているガットは、科学の力で合成された柔らかいガットの音がするけれど、全く切れにくい特別な弦なのですよ。(勿論、切れる事は切れるけれどね。)
それをガット弦と勘違いされたら、羊さんに失礼だよ!!


Hennry purcellのchaconneのgの演奏です。 You Tubeへlinkします。
このヴァイオリニストは、個人的には、私の結構好きな演奏者です。
Hennry purcellのchaconneのg ですが、とてもパワフルにスピーディに演奏しています。
もしも、この演奏がbaroqueの奏法と思わなければとても素敵なbaroque風(擬古典)の演奏です。
でも、baroque風の演奏とoriginalのbaroqueのstyleによる演奏は違います。
baroque風の演奏ではとても素晴らしい演奏なのですが、でもbaroque時代の演奏styleを再現した演奏ではありません。
もし、baroque時代の復刻の演奏ならば、楽器的な特性等の時代考証はキチンとしなければなりませんよね。



参考までに「forte-pianoについて」  外のページへのlinkです。

indexへ


[芦塚メトードのソフトでの指導]

リズムの積み木です。
rhythmの積み木は色々な積み木が楽器店で売られています。
だから、教室の紙で出来た積み木も、何となく、そこら辺の楽器店に、極々一般的に、売って有りそうな積み木ですが、わざわざ教室の先生達の手作りなのは、そのrhythm譜の部分に、色々と考え抜かれたソフトが満載された積み木だからです。
市販されている積み木とは、同じ積み木でも、そのソフトは全く違うのです。

とても機能的なmethodeで作成された積み木なので、子供達のrhythmの理解を手助けするのに合理的に作られた積み木です。



芦塚音楽研究所で制作された教材について
時々、教室のメトードを全く勘違いしている人達がいます。
ある時に、音符カードについて、「教室では市販の音符カードを使用しているので、音当ては、芦塚メトードではない。」と言っていた人がいましたが、芦塚先生は、芦塚メトードを指導するのに、使用する教材は、先生達の教材作成の負担を軽くするために、市販の教材で間に合うものはそのまま市販の教材を使用して、芦塚メトードの指導に当てているからなのです。

勿論、市販の音符カードを、生徒に買わせただけでは、芦塚メトードとは言えません。
何故なら、芦塚メトードとはそのカードを使用して、lessonをするその「方法論」の事を芦塚methodeと呼ぶのですからね。

「Beyer教則本を使用している古めかしい教室」
時々、私達の教室では、「Beyer教則本を使用するから」・・・・といって、私達の教室が「日本の古いトラディショナルなmethodeの教室である」、と言っている人達を見かけます。
Beyerは古いメトードで、BeyerでPianoを学習すると挫折してしまう。Pianoが上手にならない。と決めつけて、芦塚先生の説明も聞こうとはしません。
しかし、確かに、Beyerを教材として使用するには、指導者はかなり高いハードルの勉強を必要とするのです。ただ単に、BeyerをPianoの学習教材としてmanualを無しに指導すると、学習する生徒達には、辛い厳しい教則本になってしまうのです。
それが、一般的にBeyerの評判を悪くしている理由なのです。
でも、それはBeyer教則本自体のせいではありません。
あくまで、指導者の能力不足のせいなのです。
Beyer教則本は、とても良い教則本であるという事で、その教則本を使用するには、かなりのその指導者の教材研究の水準が要求されるのです。


ですから、子供の時代に、Beyerで酷いlessonを受けて来たお母さん達の中には、「子供には、Beyer教則本は使用しないでください。」と頼まれる事があります。
教室を開設する前から、芦塚先生は世界で出版されているありとあらゆる初歩の教材を、実際に子供達に指導して来ました。
また、色々なメトードの代表の方達ともお話をしてそのconcept等の説明も受けたりしました。

という事で、勿論、別にBeyer以外の教則本を使用する事は、教室としては、全く問題はないので、昔は、そのように希望されるお母さん達には別の新しい教則本を使用して、そのまま指導していましたが、やはり、Beyer教則本を使用するのとしないのでは、子供の伸びは明らかに違って来るのですよ。
新しい教則本には、色々と工夫はしてあるのですが、systematicではないのですよ。

やはり、何処かに無理があるのですよ。
その点、やはり150年間も使用されて生き残って来た教則本には、それだけの薀蓄があるのですよ。
「Beyer教則本を使用しないと3年間伸びが遅くなるよ!!」 アッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハ!!

という事で、近頃は、そういうお母さん達には、お母様自身に、Beyer教則本の体験学習をさせています。
「教室では、Beyer教則本を使用してこのように指導するのですよ。」

最初はBeyer教則本を嫌がっていたお母様達も、実際に、芦塚メトードでのBeyer教則本の指導を受けて見て、「Beyerって、こんなに簡単で綺麗な曲だったの!!」という事で、皆、納得して、Beyer教則本でのlessonに同意します。

何故、一般には、「Beyer教則本はつまらない」とか、「Beyer教則本を使用すると、生徒が中々伸びない!」、と言ったような声が起こるのかというと、Beyer教則本は、とても中身の濃い教則本なので、そのmanualが非常に難しいのです。

だから、Beyerのmethode(manual)を知らないままに、当てずっぽうに教えてしまうと、単なる風邪なのに、抗がん剤を処方するような大変な事になってしまうのです。
否、それは逆か??
脳梗塞なのに、頭痛薬を処方するようなものですな!! アッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハ!!

だから、皆、Beyerには嫌な思い出があるのですよ。
それがmethodeなのですよ。

芦塚メトードも同じです。
Beyer教則本は非常にlogisch(ロギッシュ論理的)に、しかもsystematicに構成されています。
その曲に与えられた課題の意味を理解しないままに、譜面(ふづら)が易しいので、超絶に難しい101番や103番のEtudeを前の方に持って行っている校訂者が多いのには辟易させられます。
Beyer教則本の真の意味を理解しないで校訂をしているのだから・・・。

芦塚メトードでは、そのBeyer教則本のsystemを活かしながら、芦塚メトードのmethodeと合体させて使用しています。
ですから、その芦塚methodeをVivaldiのorchestraの曲に使えば、芦塚メトードのVivaldimethodeになるし、Diabelliを中心とした連弾のmethodeでも、Burgmullerのmethodeでも、なんでもありですよ。
Vivaldiの曲を、並べ替えるは、子供達の伸びに合わせて、配列を変えます。
curriculumは必ずしも絶対ではありません。systemさえ、しっかりしていれば良いのです。



結論的に言えば、芦塚メトードが最初にあるわけなので、本当は、使用する教材は、どの教則本でも良いのです。
もっと言うと、教則本自体も、本当は必要はないのですよ。
そこの所が一般の人達には、なかなか分かって貰えない・・・困ったものです。

Beyer教則本のmanual全3巻は、一般の人は閲覧禁止のmanualです。
ですから、お試し版のような「芦塚陽二のBeyer教則本manualの総括的な概論」というページを特別にupしています。
これは、Beyer教則本のmanual(取説)のページなので専門的なページです。


indexへ

クリスマス会と合宿のご報告 2013年12月22日花園自治会館にて