今、極普通に流れているバロックの純正調サウンド
05年11月の14日の午前4時頃やっとコンピューターの作業が終わった。つけっぱなしのTVはいつの間にかフィーリングタイムになっている。外国ということは分かるのだがどこの国かは分からない。見知らぬ海や山などの人影の全く見えない寂しく、且つ又美しい自然の風景と共にブルガリアンボイスともエンヤサウンドとも思われる音楽が流れてくる。一つ違うのは流れてくる歌が日本語であるということだ。
「珈琲館ぶな」のコンサートでは毎回バロック音楽と普通のクラシック音楽の演奏や表現上の違いについて説明をしている。ヴァイオリンの場合だが、純正調のサウンドの美しさをより強くあらわすために、ビブラートはほとんどしないとか、音を共鳴させるための奏法等である。純正の響きをより分かってもらうために平均律と純正調の弾き分けの出来るキーボード(ハーモニーディレクターというキーボードです。)などを持ち込んで解説してみたのだが、その差はあまり分からなかったそうである。[1]
私がまだミュンヒェンの音楽大学の学生であったころカール・リヒター教授の合唱(ミュンヒェナー・バッハ・コアー)は世界的に有名なプロの合唱団であったにかかわらず、入団条件は音楽家若しくは音楽大学生で無い、つまりアマチュアであることであった。つまりプロは自分の声をふくよかに、より豊かに響かせるためにビブラートをする。しかしビブラートは音の豊かさを表す半面、和音の美しい響きを失わせてしまう、という欠点も持っている。それと音楽大学生は純正調より平均律の音を歌うように訓練されているのだ。そのためによりバッハの音に近づけるためにはプロもどきの人たちを訓練するより、全く何も知らないアマチュアを訓練したほうが手っ取り早い。
私達が演奏している他の会場のお客様達と違って「珈琲館ぶな」のお客はどちらかというとマニアの人が多い。バロックやルネッサンスの音楽のサウンドのことは理解できても、ブルガリアンボイスやエンヤのサウンドと近いなどといっても逆に(そっちの方が)わからないかな?「エンヤって何さ?こらさ!エンヤさ!」
私達が演奏しているバロック音楽は時代的には中期バロックが多い。一般には音楽の歴史ではシンプルな音楽がバロック期で頂点に達して「より複雑」になったと考えられがちである。しかし現実的には中世からルネッサンスにかけて、(合唱の時代といわれるのだが)音楽技法的に頂点に達している。120声部を越すフーガの作品やポリリズムで書かれた作品、或いは殆ど複調と呼べるほど調性的に各パートが複雑に絡んでいる作品を多数目にすることが出来る。言い方をかえると現代音楽の手法の殆んどがルネッサンスの時代にまでに使われていたと言っても過言ではない。またルネッサンスは人間復興の時代でもあった。音楽はそれまでの教会の独占から民衆の(とはいっても貴族やブルジョワ階級の)世界を描き出す。
しかしそれでも、所謂庶民と言われる階層である一般大衆の音楽は民族的なカラーの強い物で、今日我々が知っている音楽とは全く異なった音楽であった。その民衆の音楽が徐々に貴族階級の間にも(あくまで芸術としての職業音楽家の手によるのだが)浸透してくるのが前期バロックからである。そういった意味で前期バロックや中期バロックには粗野な民族音楽のような単純さや人間臭さとバロック独自の数学的技法が渾然となった独特のおもしろさがある。
つまり今日ブルガリアンボイスやエンヤの世界にみられる民族性や単純さ、合唱に特有の純正調等などの限りなく見出せる共通性をバロック音楽にも見出すことができる。
アッハッハ!!そりゃ、ほんとかね!??
江古田の寓居にて
05年11月14日
[1] ド、ミ、ソ、と言うV和音であるが、もちろん平均律のコードで鳴らしても、当たり前のV和音である。しかし、最初純正のV和音を鳴らしてその響きをよく聴いてから平均律のコードを鳴らすとその濁りがあまりに汚いことに驚かされる。−ということを期待したのだが・・・!