専門家(プロ)を目指す人へ

「何を持ってプロというのか?」

当たり前のことではあるが、「専門家の話」をする前に、何を持ってプロと呼ぶのかを定義付けておかなければならない。プロには大きく二つの意味が考えられる。一つは芸術家としてのプロである。もう一つは職人としてのプロである。日本ではプロというと殆どの場合には、芸術家としてのプロを意味し、職人としてはNHKなどでも「名も無き街の職人」とか言って暗黙に芸術とは無縁の存在として置いている。又芸術家は気分に左右されるのは当たり前で、「今日は気分が乗らないから演奏会は中止!」というマルタ・アルゲリッチのようなピアニストの存在も認められる。ラーメンを食べに行ったら、「今日は満足の入ったスープが出来なかったから、お店は休みです。」という張り紙がしてあって、「流石は芸術家は違うな。」と感心しているどこかの人のような感じですかね。「今年はいい蕎麦粉が取れなかったので一年間お店は休みます。」なんて言える人はよっぽど生活に困った経験の無い人なんだろうね。

気分でしか水準をキープできない人のことも我々はアマチュアと呼びます。何故ならその人達は極限られたジレッタントの社会の中でしか生活していないからです。しかしながら、それでも技術が世界一級であるとすれば、芸術家とは呼んでもよいでしょう。しかし、音楽大学に入ったぐらいの学生が「忙しくて練習する暇が無かったから・・・本当はもっと上手いのよ。」なんていっても誰も認めてはくれません。何故なら本当の芸術家の作品は反古になった作品ですら、一般の水準より遥かに高い水準をキープしているのですから。


私の師匠であるゲンツマー先生は「音楽家は職人しか居ないんだよ。芸術家であるか否かを決めるのは、歴史だよ。」といって「最初から芸術家足らん」としている学生を戒めていました。(ドイツには道に偉人の名前をつけます。ベルリンにはゲンツマー通りもあるんですよ。)師匠の師匠であるヒンデミットにも勝ると劣らない作曲家なのですが、まだヨーロッパでの評価ほどは日本では受けていません。しかしそういった作曲家は沢山いますので然程(さほど)気にはなりませんが。(フランク マルタンなども大好きな作曲家で、留学のときにぜひ師事したかったのですが、ソ連のチェコ侵攻などで留学できなくなってしまいました。)

プロという定義には、「その職業で生活を成り立たせているか。」ということもあります。これを言うと「芸術で生活が出来ることは無い。」と怒り出す人も結構います。芸術至上主義の人達ですかね。しかし実際の所、クラッシックの作曲家で作曲だけで生計を立てている人は殆んどいません。その事実は今日でも変わらないのです。ストラビンスキーやメシアンのような今世紀最大の作曲家と呼ばれる人ですら副職によって生計を立てています。しかし、それはあくまでクラッシックの世界のお話しに過ぎません。いったん、ポピュラーの世界に足を向けると大金持ちの作曲家はたくさんいます。演奏家だってお金と割りきってその気になれば、20代の内に一軒家の家を持つ事だって出来るでしょう。

音楽大学は不思議な所で、夢見る演奏家の卵たちの集まるところでもあります。その先生の言う通りに勉強を続けると世界に通用できる演奏家になれるというような夢です。しかし、はっきり言ってその大学を卒業した世界に通用する演奏家になった先輩はどれぐらいのペースで居るでしょうか?5年に1人?10年に1人?そんなペースでも非常に多い数だと思いますよ。仮に1020代で幾らマスコミ受けしたとしても、30代、40代でも演奏活動を続けることは出来るでしょうか?それなのにその大学を出た人が全てプロになるようにいわれていませんか?それはありえないことですよね。しかし、夢を見続けることは、先生達もその方が生徒を集めるのに都合が良いので夢を見させたままにします。殆んどの学生の場合卒業と同時か、(親の娘への思いやりで)23年そのまま勉強を続けさせて本人が納得するのを待ったりします。女の子は不思議なもので、結婚しても最愛の彼氏が自分の才能のことを認めてくれて、朝から晩まで練習に専念していても褒めてくれこそすれ、怒られる事は無いと確信しています。今までの子供時代の生活の延長が結婚した後にも続いて行くものだと、夢見ています。お見合いの席でまじめな男性は彼女の夢を打ち砕きます。「私が結婚したいのは芸術家とではなくて、飯炊き女となのですが!」

職業としての音楽は音楽大学で勉強するものとは全く別のものです。
音楽大学の卒業生の大半は学校に勤めるか、音楽教室に勤めて子供達を指導しますが、音楽大学で子供の指導をカリキュラムに組んでいる学校は殆んどありません。
ですから音楽大学の卒業生の大半は卒業して初めて子供との接し方を学ばねばならないのです。
ましてやバイエルやブルグミュラーの分析などということはやったことがありません。「エッ!バイエルなんてなにが分析できるの?」今流行の、ダビンチ・コードではありませんが、世の中には知れば知るほど奥が深くなっていくものがあります。
例えば、百人一首もそうです。隠されたメッセージは百人一首が地図であったことが次のメッセージの糸口になります。(詳しくは
NHKに問い合わせて下さい。)

でも音楽大学では、音楽教室で指導をすることは馬鹿にします。
だから学生達も音楽教室で教えている先生達に対して、「実力が無かったから音楽教室に勤めているんだ。」と言わんばかりに舐めた態度を取ります。
先生方が自分達の先輩であることを忘れてね。
それ以外の音楽に関する職業は全く知らないといっていいほど無知です。
「録音技師になりたい。」とか「音楽出版社に就職したい。」とか言って私の元を尋ねてくる人も居ますが、そこで何を勉強しなければならないのかは全く無知なままです。
紹介のしようもありません。



何を目的に音楽大学に行くのか?これは大問題です。何故なら将来の目的しだいで音楽大学に行くことが全く無駄であることが多いからです。絶対に音楽大学にいかなければならない職業は教員でしょう。プロであるかどうかを決めるのは学歴ではありません。桐朋学園の学長ですら東大の仏文科卒業ですからね。

ホームページの中でこのページを作るのがもっとも遅くなってしまいました。
とはいっても、プロを目指す人へのアドバイスとして書かれた「プロになるには」副題で(プロになるための条件)は8年以上も前に本(自家製作です。)にしていましたし、その本をより辛らつにした
2稿も(殆ど1稿と前後して)書き下ろしました。
それから、「プロになるには」という小冊子はあくまで夢を夢としてしか見れない音楽大学を受験する生徒やコンクールを受ける生徒達、或いは留学組みを含めた音楽大学生を対象にして「夢を本当に現実化するにはどうしたらよいのか?」ということをテーマに書いていたので、音楽大学を卒業した、或いは挫折をすでに味わった人を救済することを目的として「プロの定義」という小冊子を作りました。


ホーム・ページにはその冊子をそのまま掲載すればよいように思われがちですが、載せることを躊躇したのは別に情報の流出や剽窃されることを恐れたからではありません。

夢を100%かなえるコツは夢を「夢として」でなく正確に見つめることが必要なのだからです。
私の人生の中では、多くの大学出の若い人達との出会いがありましたが、そのうちの人達の中には音楽の夢を挫折させた人達も数多く見受けられました。
そういった挫折を味わった人が、彼らがそれを望んだ時にした私のほんのちょっとしたアドバイスで、彼らは夢をかなえることが出来ました。
今、彼らは音楽と関わった人生を送っています。
そんな些細な(アドバイスですむような)事が、日本の上辺の中で取り繕っている虚構の社会の中では、本当の現実を見つけ出すことが出来ないままに、夢を諦めたままの一生を送る人の方が殆どを占めるのです。

現実を見極めることが出来ないという甘さのほかに、「プロの定義」で繰り返し述べている事は「夢はその人が本当に望んだ通りにしかかなえられない。」という一つの法則です。「本当に」という意味は何度もお話しているように、「潜在意識的に、」とか「心の底から」(実際にはその人が何を望んでいるのか?)という意味が伴います。

簡単な話ではピアニストになりたい人の大半は、別に音楽が好きでもなんでもなく、自分を認めてもらいたいだけなのです。
彼(彼女)等の音楽はこういうふうに聞こえてきます。
「こんな難しい曲を弾けるのよ!かっこいいでしょう?」「これだけ遊びたいのを堪えて、練習してきたんだからえらいでしょう。もっと認めてよ!」発表会のときに小さな子が親に言っている言葉そのままではありませんか?

ということで、音楽大学生の相談を受ける時にはその問題点を一つ一つ浮き彫りにしていきます。
考古学者が泥や砂を刷毛のようなもので丹念に掃き落として、石器や仏像などを当時の姿に再現させることに似ています。
ごちゃごちゃに絡んだ糸を一つ一つ解きほぐしていきます。
そうすると幾つかの矛盾するパターンが見えてきます。
これがありとあらゆる教育の障害になっている原点です。

例えば以下の例はどうなるのでしょうか?

@     ピアニストを夢見る音大生の卒業生がいました。
あるとき私に相談に来ました。恋人が2人居て、一人は優しくて家庭的で(浮気もしないし)何をしても許してくれる人、もう一人は、とても自分にも他人にも厳しい人で自分を最大限引っ張ってくれる人(もてすぎるから浮気は当たり前)。

私としては、別にその人に会って面接するわけでもないしただの相談なので、「ピアニストを続けるつもりだったら、厳しい人の方がいいと思うよ。でも、幸せを求めるのならピアノは趣味か子供を教えるぐらいにして、演奏活動はやめたほうがよいと思うよ。」とアドバイスはしました。
しかし彼女は優しい人を選び結婚して演奏活動も続けようとしました。
結婚から半年後の演奏会で結果は見え始めました。
彼女は演奏会の一月前から何も食べられなくなり、点滴でふらふらしながらのコンサートでした。
悲劇的で見るに耐えなかったのですが、同門下の仲間は決して批判やアドバイスはしないもので、私達の「二度と彼女の演奏会には行きたくは無い。」という評価が彼女の耳に届くことはありませんでした。
その後の企画の演奏会では、彼女は流産しました。
私には彼女の声が聞こえてきます。「私はこれだけ一生懸命やっているのよ。」「命を賭けてやっているのよ。」

音楽は戦争じゃないのです。
別に命をかける必要はないのです。
楽しく気楽にやっても良いのです。
しかし、ある意味での厳しさは必要なのです。
自分を磨いていくわけですから、こつこつと、しかし自分の欠点をしっかり見据えて正していかねばなりません。
人に認められる・・・と言う事は、自分がどうしたか・・・ということではないのです。
人に対して、何をしたかということなのです。
苦労した音楽にお義理で切符を買うかもしれません。
しかし、音楽を聞くことで、楽しくなれるのなら、ハッピーになれるのなら、誰だって喜んで切符を買うでしょう?
それがどうして分からないのですか。
あなたが幾ら苦労したって、それで恋人が出来なかったとしても、それはあなたが好きでやっていることに過ぎないんじゃあありませんか?

私がまだ学生時代に女の子が私にプロポーズして来ました。
「私は貴方のことを命がけで愛しています。あなたの言われることだったら何でもやります。」僕は言いました。「分かった。そんな大変なことはいらないから、じゃぁ、一週間でいいから、ニコニコしていて!」でも、お気づきのように、彼女は一週間ニコニコと楽しく生活を続けることは出来なかったのです。
勿論彼女は暗い性格の人ではありません。極、普通の穏やかな性格の持ち主だといえます。
しかし、極普通の日常生活の中ですら、自分の心を一定にすると言う事は大変難しいことなのです。

しかし演奏家にとってもっと大変なことは、演奏会は本人の気分とは無関係にやってくるということなのです。
私達のところでは先生達は自分の演奏会が次の日にあろうと無かろうとレッスンを休むことはおろか、ローテーションを変えることすら認めてはいません。
演奏会の前日に皆で飲み会なんて当たり前のことです。
それで無ければ
10年、20年と演奏会を続けていくことは出来ないでしょう?
練習が日常、演奏会が日常で、それが普通の生活でなければなりません。
当たり前の話なのです。

毎日毎日を練習だけに明け暮れる、それはピアニストにとって憧れの生活でしょう。しかし、生活は誰が面倒見るのですか?
音楽大学を卒業した後も親に面倒を見てもらうのですか?
それは芸術家として評価してもらう前に大人の社会人として認めてはもらえないと言う事ですね。

音楽大学の学生さん達はプロという考え方でもう一つ大きな勘違いをしています。

ヨーロッパの音楽学校では
1年生に入学したとき100曲の課題が与えられます。
勿論、平均率は
1巻で一曲ですし、ショパンのエテュードも0p.10で一曲と数えます。これを何年間でこなしてもいいのです。
年齢制限はありますが、殆ど関係ないでしょう。
ドイツでは
4年で卒業するということはありません。
卒業するという発想自体が無いのだから。
あくまでその先生の下での終了にしかすぎないのです。
次に別の先生の下でさらに勉強を続けたいと思ったらその先生のクラスに入ればよいだけなのです。
私の行っていたミュンヘンの音楽大学などは国立なのでどの大学にでも転入できます。
国を越しても可能なのです。
それからドイツではピアニストという職業は国家試験に合格しなければなりません。まずアウスビルデュングクラスで師匠から卒業の証明を貰わねばなりません。
で、それまでの成績が全て1(
5段階で)でなければなりません。但し、専門科目、例えばピアノ科ならばピアノの成績だけは1..5まで許されます。
一科目でも2や3の成績があるとマスタークラスにはいけません。
日本で言う大学院みたいなものでしょうか?
マスタークラスを卒業出来るとマスターを名のる事が出来ます。
日本人でマスタークラスを卒業した人は聞いたことがありません。
幾らピアノが上手くとも音楽の全ての教科がプンクト
1でなければならないからです。そしてマスターを取った人達の中からピアニストの国家試験を受けることが出来ます。
ですから日本人で留学してドイツの国家試験でピアニストとして認められた人は僕は知りません。
日本のように自称で私はピアニストとはドイツではいえません。
ドイツ人に向かって「私、ピアニストなの。」といったら多分大変驚かれて、尊敬されるでしょう。
かなり専門的なことを質問されるかもしれませんね。
僕の友人でドイツ人のピアニストがいます。
勿論自称ではなくドイツ国家の認定のピアニストです。
日本に演奏会に来る時には
A4用紙に10ページぐらいぎっしり印刷したレパートリー表を送ってきます。
日本のエージェントはその曲の中から
Aプロ、Bプロ、・・・と幾つか(通常、4,5パターン)のプログラムを作って各地のプロモーターの所へ送ります。
日本に来る場合といっても、日本だけに来るわけではないので、途中でインドや中国韓国などアジアツアーの場合はアジア諸国を歴訪します。
長い場合にはツアーは半年に及びます。(これは誰でも普通でしょう。)
日本だけの場合でも一月はツアーを続けます。
日本で
4パターンにしか過ぎなかったレパートリーも、次の国にいくとお国柄で全く新しい選曲になります。
ということで演奏旅行を続けていると、その曲のレパートリーは膨大なものになります。
それ以外にもスポンサーから曲の希望がでる場合があります。
お客様は神様です。「**曲以内は希望の曲を入れることが可能です。」という条項は必ずどの人にも入っているようです。

 

 

A     人生には一つのことを得るためには、別のことを捨てなければならない。ということが良くあります。
私達が20数年間教えた経験でも「何を捨てなければならないか?」という決断を迫られる時、躊躇無く捨てられる人は数えるほど少なかったのです。

ある音楽大学生の女の子のお話ですが、憧れの音楽大学に入ることが出来ました。そこで彼女の夢を聞いてみると「彼氏が欲しい。」「学生生活をインジョイしたい。」「プロのピアニストになりたい。」「教員になるのは嫌。」「子供を教えるのもいや。」「ピアノで生活をしていきたい。」「ポピューラーも嫌。」「大学を卒業したら音楽を仕事として生きて行きたい。」ということでした。

この話は幾つかの条件が絶対的に矛盾しています。
これが選択の問題だったら彼女の夢は問題無くかなえられたでしょうが、彼女はこの夢の中から何一つ選択をすることが出来なかったのです。
そのために大学生活をインジョイすることも出来ず、何をしても反対のことで悩まなければならなかったのです。うんとお腹を空かさせたロバを食料倉庫の中に入れると、ロバはどれから食べてよいのか分からなくなって餓死してしまう、というお話しがあります。
(嘘か本当か知らないけれど。)

 

今までの例は本人の考え方に原因があるようですが、原因が親の場合も数多く見受けられます。

 

B     親は自分達が家族で遊びたい。それ自体はとても良い事なのだが、子供のローテーションについては全く考えない。
全く親の都合である。発表会があろうと、コンクールがあろうと親の都合で子供を引っ張りまわす。「親や兄弟が遊んでいる時に一人で練習させるのは可哀相だから。」という理由である。
しかしそれなら親が遊びに行く日にちを子供のローテーションに合わせるということは思いもつかない。
それで発表会やコンクール、果ては入試までもが上手く行かなかったとしても、自分たちのせいではなく先生のせいだとする。
何故なら子供を引っ張りまわしたのはあくまで子供のためであって、子供のためにしたことが悪いわけではあるはずが無いからだ。

 

C     特に母親が(同じ音楽家同士でなかったとしても)キャリアウーマンとして色々な仕事をしてきた場合に見受けられるのだが、子供がコンクールなどを受けるぐらいに上達してくると、「この子は他に才能があるかもしれない。」とか「もっと色々な人生を経験させたい。」とか言って、子供の勉強にストップをかける、とか(レベルダウンをさせるとか)いった事がよくある。

子供に対してのジェラシーなのか、自分を越えられることへの恐怖なのか、(親としての尊厳が否定されることで。)しかしこれも、子供のことを考えてレベルダウンさせたわけだから親は正しい事をやったわけである。
当然親が自分のことを反省することはない。