ヴァイオリン(楽器)がはまる

私の肩は極端ななで肩である。ビジネスマンなどが片側にショルダーバッグなどをかっこよく持ってきびきびと歩く姿にあこがれたものだが、何せ極端ななで肩であるのでほんの数歩も歩くと肩からカバンが落ちてしまった。というわけで色々な肩当などを試しながら騙し騙しヴァイオリンを構えている。(私のなで肩はほんとに特殊で、この20年間に2,3人だけ同じ肩の子供がいたぐらいか?)それが或る時、(とは言っても20年以上も前のことではあるが、)生徒のヴァイオリンを選びに楽器店に行っていたときの事だが、生徒のために選んでいた数本の内の一本の楽器が、何と何の苦労も無く吸い付くように、私の肩にぴったりと納まったのである。こういった状態を私達は「楽器がはまる。」と表現している。ヴァイオリンとしては250万ぐらいの新作の楽器なので大して高価なモノではないのだが、そのときはちょっと二の足を踏む値段だった。楽器自体がもう少しよいものであったとしたら即、買ったのかもしれないが、楽器自体はあまり好みではなかった。しかし楽器が「はまる」のだ。楽器屋さんも「もう少し待ってみたら、もっと気に入ったものが見つかるかもよ。」と言ってくれたので、そのときは諦めることにしたのだが、それ以降、20年たってもそういった楽器にめぐり合ったことは無い。いい楽器は幾らでも見つかるのに「はまる楽器」は無いのだ。

確かにオケ練習やレッスンで子供達と一緒に弾くためには、「はまった楽器」は楽器が体の一部になってしまうということでとてもよいことだ。自分が楽器を持っていると言う意識がなくなることはその分音楽や子供の教育に専念できるということでもある。しかしそのために肝心要の音(音色や音量などなど)を犠牲にすることは音楽家として許されることではない。延々と楽器店に通い続けていると「これは一生の間に2度とめぐり合えない楽器だ。」と言うものに逢えるチャンスがある。そのときはいかなる困難を払ったとしてもそれを逃がすべきではない。11億のストラディバリがもしその楽器であったら、私としては困るのだが、私にはストラディバリ信仰は無い。トルテの弓ともう一人の名工の弓があったときも「この弓は2度とめぐり合えない弓だ。」と思ったのはトルテではなかった。弓にはおかげで2度ほど素晴らしいものに出会えたが、ヴァイオリンやチェロに関しては「お前は私の永遠の恋人だ。」と言えるような楽器にはまだめぐり会ってはいない。ピアノは弦楽器に比べれば、幾ら「スタインウエイだ。」「ベーゼンドルファーだ。」「いやエラールに限る。」などといっても、まだ機械の域を出ないしね。弦楽器のように古くなると値段が上がるのではなく、やはり消耗品として値段は下がっていくんだよね。